大島 保克
我が島ぬうた
沖縄の民謡は戦時中時代にほんろうされ、一度は死んだ。
それを蘇らせたのは、移民や兵役や出稼ぎで外地(日本本土も含む)へ行っていた歌者たちである。戦争中でもふる里を想い三絃を手放さず、望郷の歌を歌い続けてきた人たちがいたからである。
今でも若い人が本土へ就職や大学進学で行って、最初に親元に無心するのは、島では気にもとめなかった島うたのCDとポークランチョンミートが多いと言われている。
体に染みついた島のニオイは、島を離れることによって、より強烈になる。
大島保克の歌に説得力があるのは、故郷を遠く離れることによって、島匂(シマカジャ)が増殖したからだと思う。
「イラヨイ月夜浜」のようなやさしい歌が書け、歌えるのは、オキナワン・チルダイの中ではけっして生まれるものではない。
大島保克の場合、三絃はリズムを刻む打楽器であり、
歌声は“思い(ウムイ)”を表現する弦楽器であるような気がする。
現在の八重山民謡界正統派の最高峰、安室流第五世玉代勢長伝や八重山民謡をポピュラーにした美声山里勇吉。大御所大浜安祥の流れをくむ若くして物故した天才宮良高林、そして民謡日本一宮良康正と続く、我々が録音物で聴くことが出来る上質の八重山民謡の系譜である。
そんな先人たちの遺産を引き継ぎ、新しい資産を殖やす仕事が大島保克の使命である。
歌者大島保克は進化を続け、小さな島空間に漂う魂(ソウル)の光をより大きな太陽の輝きにまで高める祭司の役を務める運命にある。これまで発表した歌の数々は壮大な組曲の序章の第一部でしかない。我々の楽しみはまだまだ続くし、保克の仕事は、終わりのない永遠の旅人であり、殉教者である。
八重山を代表する歌の一つに「トゥバラーマ節」という歌がある。このCDの一番最初の曲です。
ナカドゥ 道カラ 七ケラ 通ユルケ
仲筋カヌシャマ 相談ヌ ナラヌ
トゥバラーマ節の原歌は上記の歌詞ではじまる三番までしかなかった(喜舎場永珣)。それを八重山の人たちは、この節が本島のナークニーみたいに感情移入がたやすく、島のリズムに乗りやすいものだから、庶民から支配者階級の人々まで、新しい歌詞をつけて歌いだした。現在も幾百幾千のトゥバラーマ節の歌詞が生まれ続けている。歌い方も、人それぞれの工夫があり、歌者の個性を知るのに最適である。
ここでの大島保克は「道トゥバラーマ風」に歌に入り、三絃は後からリズムだけを取るように大変シンプルに入ってくる。声は力強くそれでいて穏やかに不思議な雰囲気を醸し出し、聴く人をたいへん幸せな気分にしてくれる。
新しいトゥバラーマの誕生である。
これからも、新しい録音盤を取るときには、必ずトゥバラーマを入れてほしい。保克の歌の歴史がそれで綴れるような気がする。
備瀬善勝(2000年、CDライナーより)