PROFILE プロフィール

1952年4月4日、北アイルランドはベルファストにてこの世に生を享けた孤高のギタリスト。10歳のときに父親からギターを買い与えられ、ギターの魅力に惹かれていった。エルヴィス・プレスリーやTHE BEATLESに衝撃を受けたゲイリーは、ロックンロールに傾倒し始めるも、60年代半ばに地元ベルファストで観たジョン・メイオールによるBLUESBREAKERSやジミ・ヘンドリックスのライヴが、ブルースの豊かな世界に彼を誘うこととなる。ギターにのめり込んでいったゲイリーの才能は、FLEETWOOD MACのギタリスト、ピーター・グリーンに認められ、周囲はブルースにおける10代の鬼才としてゲイリーを賞賛した。

1970年、ダブリンに移った弱冠17歳のゲイリーはアイルランドのヘヴィ・ブルース・トリオSKID ROWに参加し、彼自身プロ・デビュー作となるアルバム「SKID」を発表、THE ALLMAN BROTHERS BANDやMOUNTAINの米国ツアーでサポートを務める。その後SKID ROWとして2ndアルバム「34 HOURS (34時間)」をリリースするも、ゲイリーはバンドを脱退。自身のバンドTHE GARY MOORE BANDを結成し、唯一のアルバム「GRINDING STONE」を発表したのち、フィル・ライノットの要請により一時THIN LIZZYに加入する。そしてTHIN LIZZYを離れたのちはCOLOSSEUMⅡを組み、76年、77年に3枚のアルバムをリリース。翌78年にCOLOSSEUMⅡを抜けたゲイリーは、THIN LIZZYに再加入。

79年、フィル・ライノットをフィーチュアしたトップ10入りしたほどの大ヒット・シングル「PARISIENNE WALKWAYS (パリの散歩道)」で、ゲイリーはソロ活動を本格的に始動させる。その後にリリースした初のソロ名義アルバム「BACK ON THE STREETS」も各方面から絶賛される。THIN LIZZYとして傑作「BLACK ROSE」を作り上げるも、そのツアー中に脱退しG-FORCEを立ち上げる。しかし、G-FORCEはアルバム1枚を発表しただけで解散に。

82年には再びソロ名義で、名作「CORRIDORS OF POWER (大いなる野望)」をリリース。このアルバムは日本でも大ヒットを記録し、翌年には初来日公演も果たす。この年、「レディング・フェスティヴァル」出演も。ライヴ・アルバム等を発表したのちの84年、アルバム「VICTIM OF THE FUTURE (炎の舞)」を発表し、それに伴う2度目のジャパン・ツアーを行う。U.K.ドニントン・パークで開催される「モンスターズ・オヴ・ロック」にも出演する。85年「RUN FOR COVER」をリリースし、3度目の来日ツアーを敢行。86年には、今は亡き本田美奈子に「THE CROSS(愛の十字架)」なる楽曲を提供。オーヴァードースのためにこの世を去ったフィル・ライノットへ捧げた「WILD FRONTIER」を87年に、続く「AFTER THE WAR」を89年にリリース。

そして90年、それからのゲイリーを象徴する作品「STILL GOT THE BLUES」を発表。その名のとおり、自らのルーツであるブルーズ・ミュージックへ傾倒した1枚で、ハード・ロックからの急激な路線変更であった。その後も92年の「AFTER HOURS」、ピーター・グリーンへの感謝の意を込めた95年の「BLUES FOR GREENY」、2001年の「BACK TO THE BLUES」などなど、本格的かつ良質なブルーズ・アルバムを発表していく。その間、94年にはジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースとともにBBMなるプロジェクトも結成。

2003年には、WHITESNAKEがヘッドライナーを務めた「モンスターズ・オヴ・ロック」ツアーに参加し、ブルースに傾倒してからは封印しつづけてきた往年のロック・ナンバーを披露するも、後に「後悔している」との発言を残し、2004年の「POWER OF BLUES」、「OLD NEW BALLADS BLUES」といったアルバムでやはりブルースをプレイ。今年2007年、尊敬するアーティストたちのカヴァーを含むニュー・アルバム「CLOSE AS YOU GET」で、これまで歩み続けてきたブルースの旅路をさらに一歩進める。その夏、ヨーロッパのブルース・フェスにいくつか出演し、08年にはハード・ロック色も感じさせるアルバム「BAD FOR YOU BABY」を発表する。

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