STORY

photo 金属片やチェーンソーなども楽器として使用し、80年代に日本でも人気を博した、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのメンバーであり、ベルリン・アンダーグラウンドの重鎮アレキサンダー・ハッケ。彼が最初にイスタンブールとその音楽に出逢ったのは、映画「愛より強く」(05)の音楽制作をしている時だった。イスタンブールの音楽シーンの魅力に取り付かれた彼は、その魅力の秘密を求め、現地の音楽家たちとセッションを重ねていくことにした。
西洋音楽をやり続けてきたハッケにとって今回の旅の目的は、エレクトロニカや、ロック、ヒップホップ、そして民謡や大衆音楽に至るまで、幅広いジャンルを奏でるイスタンブール音楽の多様性に最大限触れること。そして、町のあらゆる所に溢れ、そこに住む全ての人達から深く愛されているイスタンブールの生きた音楽シーンをカメラに収めることである。
そのために彼は、イスタンブールでもっとも西洋的な場所であるベイオール地区の由緒あるブユック・ロンドラ・オテル(グランド・ホテル・ド・ロンドン)を拠点とした。町の印象を基に曲の断片を集めながら、そして無数の側面を持つ大都市の止まらぬ流れにもまれながら、ベイオール地区から、風変わりで、矛盾し、賑やかで、そして魅惑的な世界をさすらうためである。
まず初めにハッケはトルコの民謡ハルクに基づいたネオ・サイケデリックなバンド、ババズーラと出逢う。彼らは“ダブ界の大御所”であるロンドンのDJマッド・プロフェッサーとの共演作で国際的に注目されている。たまたまババズーラのベーシストが脱退したばかりだったため、ハッケは喜んでベースを引き受けた。しかし、ただ単にベースギターを持ってバンドに参加したのではなく、小型のモバイル・レコーディング・システムを持ち込み、セッションを録音するのを忘れなかった。
ハッケは、トルコの民謡やサズをDJカルチャーと融合させたオリエント・エクスプレッションズ、トルコ語パンク・ロックのデュマン、ソニック・ユースに影響を受けたオルタナティヴ・ロックのレプリカスらを録音していく。彼らに共通するのは、ヨーロッパの価値観に縛られることなく独自の音楽を見出したことだ。若い彼らに多大なる影響を与えたのが、現代トルコ・ロックの先駆者とも言われるエルキン・コライだ。彼は60年代から反体制主義を押し通し、いまだに現代の若者からも支持されているのだ。
ボスポラス海峡を東のアジア側に渡り、トルコのエミネムことラッパーのジェザとその家族に出会う。彼のラップはアメリカナイズされているようだが、歌詞の内容は決して麻薬や暴力を煽らずに日常生活に則したシリアスで奥深いものだった。ストリートで活躍するブレイクダンサー達もダンスを鍛錬することでドラックなどの撲滅を訴えていた。
スーフィー(イスラム神秘主義)音楽の葦笛「ネイ」と電子楽器を融合させ、06年秋に初来日公演を成功させたメルジャン・デデも、音楽や踊りを通してイスラムの寛容さを訴えている。忘れ去られていた20世紀中頃のジプシー音楽を丁寧に発掘し、再び命を吹き込んだカナダ人女性歌手のブレンナ・マクリモン、そして彼女とともに活動するジプシー音楽の第一人者セリム・セスレル。セリムの故郷トラキアを訪ねたハッケはジプシー音楽の思わず踊りださずにはいられない魅力を肌で感じ取った。
路上のギター弾き語りは人生や社会の矛盾を訴え、クルド系住民女性歌手アイヌールは政府の圧力にも負けずクルド系住民であることを主張し、切なく悲しいクルド民謡を歌うのであった。
70年代の大スターでアラベスク=演歌歌手のオルハン・ゲンジェバイは民謡の楽器サズを演歌に定着させ、ベルエポックを知る最後の歌い手ミュゼィイェン・セナールは80歳を過ぎた今なお歌い続けている。そして最後にハッケは1980年代からトルコ音楽界に君臨しつづける大スター歌手、セゼン・アクスを収録することに成功した。
こうしたイスタンブールでの経験を手にハッケはドイツに帰国する。旅を経て、ハッケは、いかなるハードディスクやフィルムもこの街が醸し出す多様性、そして音楽や映像の圧倒的な力を十分に写し取ることが出来ないと実感していた。ただ、全てを収め切れなかったとはいえ、彼の鞄にはその魅力がぎっしりと詰め込まれた。個性豊かな人々たちが作り出す魅惑的な音楽によって、この街に住む多種多様な人々の心と心とが繋がり、私達はいつしかその魅力の虜となっていくのである。