1979 |
HANOI ROCKSの母体ともなるバンド、NYMPHOMANIACがスウェーデンのストックホルムにて結成。マイケル・モンロー(vo)とアンディ・マッコイ(g)は初めてここで出会うが、バンドはすぐに解散。 |
1980 |
ヘルシンキに戻ったマイケルはナスティ・スーサイド(g)等と共に新バンドを結成。そこにアンディが復帰。 HANOI ROCKS WITH ANDY McCOYという名義で11月にフィンランドのJohannaレーベルからデビュー・シングル「I WANT YOU」を発表(ラインナップはマイケルとナスティ、アンディとサム・ヤッファ(b)。助っ人としてジップ・カジノ(ds))。 |
1981 |
3月にデビュー・アルバム『BANGKOK SHOCKS SAIGON SHAKES』を発表。フィンランド国内チャートではトップ5に。 年末のツアーでUKでもブレイクの兆しを見せた。 |
1982 |
1月にリリースされたセカンド・アルバム『ORIENTAL BEAT』はフィンランド国内で1位を記録。ディールのないイギリスでも輸入盤が売れに売れ、2度目のイギリス・ツアーを実施。そこでドラマーとしてラズルを迎える。 10月コンピレーション作品、『SELF DESTRUCTION BLUES』を発表。母国では再びチャート首位を獲得し、英国でもインディ・チャートの上位に。2度イギリス・ツアーで彼らは本拠地をロンドンに移した。 |
1983 |
1月バンドは初の極東ツアーを実施、初来日公演。3作目のオリジナル・アルバム『BACK TO MYSTERY CITY』がそのツアー直後に制作されリリースされた。 夏には英国のレディング・フェスティヴァルに出演。 10月、12月にもUKツアー実施。ロンドンのマーキー・クラブでのクリスマス・ギグは後に『ALL THOSE WASTED YEARS・・・』としてリリースされている。 |
1984 |
『TWO STEPS FROM THE MOVE』リリース。 5月には再来日。「UP AROUND THE BEND」が大ヒットを記録。 11月末、いよいよ初の全米ツアーを開始。しかしマイケルの怪我でツアーをすぐにキャンセル。 12月8日、ラズル死去。MOTLEY CRUEのヴィンス・ニールが運転する車が交通事故に遭い助手席にいたラズルは帰らぬ人となった。 |
1985 | 地元フィンランドでのラズル追悼公演後、サムが脱退。後任レネ・バーグを迎えたが、レネもすぐ脱退。 そのままバンドは6月9日、解散を表明。 5月ワルシャワでのフェスティヴァル出演がラスト・ライヴ。 |
<それから17年の歳月を経てHANOI ROCKSは生まれ変わる> |
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2001 |
3月彼らが16年前にデビューシングルをリリースしたJohannaからHANOI ROCKSのボックス・セットがリリース。そのリリース・パーティーでジャム・セッションを行ったアンディとマイケルは意気投合。 HANOI REVISITEDとして夏のフィンランドのイベントに出演。ここではHANOI ROCKSのオリジナル、ソロの楽曲、カヴァー等が披露された。 冬、2人は曲作りに専念。コステロ(g)、ティンパ(b)、ラク(ds)を従え、彼らは再び「ハノイ・ロックス」として活動していくことを決意。 |
2002 |
4月22日フィンランドにて「PEOPLE LIKE ME」リリース。フィンランドではゴールドディスクを獲得。 8月17、18日 サマー・ソニック'02出演。東京大阪は完全入場規制が行われるほどの盛り上がりをみせた。 10月23日 日本限定発売EP「PEOPLE LIKE ME / IN MY DARKEST MOMENT EP」リリース。 10月末 復活アルバム「TWELVE SHOTS ON THE ROCKS」レコーディング完了。 11月 UK&イタリア・ツアー実施。 12月18日 復活アルバム「TWELVE SHOTS ON THE ROCKS」日本発売。 |
2003 |
1月 フィンランドツアー 2月21日 JAPAN TOUR 2003スタート 10月再来日 “ROCK LEGENDS SPECIAL”フェスティヴァルで武道館登場 (この時にサム・ヤッファが“UP AROUND THE BEND”でゲスト出演!) 再来日後 ギタリストのコステロ脱退 大晦日 ヘルシンキでのライヴにナスティ・スーサイド(現在は薬剤師)出演 |
2004 |
新ギタリストとしてスティーヴィー・クラッソン加入が発表された |
詳細なバイオグラフィーをアルバム「トゥエルヴ・ショッツ・オン・ザ・ロックス」に増田勇一氏が執筆。是非そちらもチェックしてください! |