1978年に始まり、現在まで700名以上の世界的なアーチストを紹介してきたイギリスの長寿番組「THE SOUTH BANK SHOW」で、1984年に放送された、マルコム・マクラーレン特集。
この番組は、マルコムのソロ以降から、パンク・ニューウエーブ時代に遡るという特殊な構成になっている。本人のインタビューを軸に、当時のキングスロードのブティックやセックス・ピストルズ関連の貴重な映像、ヴィヴィアン・ウエストウッドのファッション・ショーの映像などが盛り込まれている。ボーイ・ジョージ(カルチャークラブ)、アダム・アント(アダム&ジ・アンツ)、バウ・ワウ・ワウのヴォーカル、アナベラがインタビューを受けている。また、トレバー・ホーン(マルコムの初のソロアルバム『ダック・ロック』のプロデューサー)スティーヴ・ジョーンズ(元セックス・ピストルズ)のインタビューなどが収録されている。更にマルコムやバウ・ワウ・ワウ、カルチャー・クラブのプロモーションビデオなども収録された凝った内容になっている。
1984年の放送当時37歳のマクラーレンといえば過去10年以上もイギリスのヤング・カルチャー、ファッション、ポップ・ミュージック開拓者という意味であった。
マルコム・マクラーレンは、71年にテディボーイ・ファッションのブティック『LET IT ROCK』を、ロンドンのキングスロード430番地にヴィヴィアン・ウエストウッドと共にオープンし、その後『SEDITIONARIES』、『SEX』と改名。店の服の愛好者だったニューヨーク・ドールズと出会いマネージャーとなり、音楽に関わるきっかけとなった。ロンドンに帰国後、店の常連だったジョニー・ロットンをヴォーカリストとしたセックス・ピストルズを結成させマネージャーとなった。彼らに店の服を着せて宣伝し音楽とファッションを巻き込んだ一代パンク・ムーブメントの火付け役となった。更にアダム・アントを再生させBOW WOW WOWと呼ばれるバンドを通してボーイ・ジョージを世界の舞台に紹介したことなども含めて多くのプロジェクトに対する成功と批判の論争の的となり、良くも悪くもなにかと話題に上ってきたのだ。
1983年、マルコムはロックン・ロールのマネージャーとファッション起業家から特殊な転向をしてソロ・アーチストとなった。彼のデビューアルバム「DUCK ROCK」は世界中のエスニック音楽を再解釈したものだった。その当時にすでに黒人の音楽であるヒップホップやスクラッチを取り入れ、さらにワールド・ミュージックのエッセンスも加え、今日のクラブ・ミュージックの先駆けとなるようなアルバムとなった。更にウォール・ペインティング風なグラフィティ、キース・ヘリングのポップ・アート、ブレイク・ダンス、ダブル・ダッチ(アクロバティックな縄跳び)など、N.Y.のストリート・カルチャーをジャケットやプロモーション・ビデオに絡めていた。
この「DUCK ROCK」はHIP HOPクラッシックの名作となり、Buffalo Galsがエミネムのネタとしても登場している。そして今度の題材は世界的に有名なオペラであり、マルコムが冒険的な試みをし、TOP 20のヒットに導いたのがマダム・バタフライである。84年レコーディングの為に彼はアメリカに向かい「FANS」というオペラチックなアルバムの制作をスタートした。
「あの頃のピストルズのことを知る人にとって、マクラーレンはビートルズのエプスタイン以上に有名だった。」
高木 完 ライナーノーツより抜粋
常に時代精神と自然と交感するアーティスト、それが高木完だ。 当時、まだほとんどの人がアイデアももたなかったパンク・シーンに70年代後半、なんとティーンエイジャーで活動するところから冴えまくり。彼は常にバランス感覚をぎりぎりで失わず、スタイルにこだわりながら、そのスタイルが何のためにあるのか、その意志を忘れない。フレッシュというパンク・バンドの後、10年以上時代を先駆けていていた日本のロック史上に残るバンド、東京ブラボーを結成。残された数少ない音源を聞いたら誰もが驚くはず。その後、藤原ヒロシとTINNIE PUNXを結成、彼自身はしばらくしてソロとしてラッパー、サウンド・クリエイターとしての活動を続けていく。ジャングル・ブラザーズなどニューヨークのヒップホップ勢と作品を通じて交流したのは、高木完と仲間たちによる日本初のダンス・ミュージック・レーベル、メジャー・フォースの他に誰がいたか?ECD、スチャダラパーなど多くのその後のシーンを変えるアーティストを世に送り出し、ダブを取り入れたり、EYEとサウンド・ヒーローというコレクティヴとして活動もした。ソロ・アルバム『アートマン』から『ハロー』はそうした彼のアーティストとして足跡をよく現している。トリックスター的に受けいれられる旨もあるが、誠実な“音”と興味のあるカルチャーへの好奇心が、彼を他のアーティストと峻別する。