2006年秋、岸田繁がモーツァルト生誕250年で沸くウィーンを訪ねる。
ウィーン管弦楽団が演奏するモーツァルトの交響曲41番「ジュピター」を鑑賞。指揮はニコラウス・アーノンクール。彼の音楽的ヴィジョン、カリスマ性に強い感銘を受ける。
ウィーンでのレコーディングを模索し始めたくるりはその年の12月、スタッフとともに再びウィーンを訪れ、レコーディングスタジオを下見、今作のプロデューサーである※アルフにも出会う。
※Sthephan "ALF " Briat〜フランス人のプロデューサー/エンジニア。AIR、PHOENIXなどを手がけている。
2007年1月より、都内ペンタトニック・スタジオで本格的にプリ・プロダクションを開始。多くのアイディアを形にしていく。複雑な構成や和音を持つ楽曲が多く、プリプロは白板に譜面を書きながら進められた。トリオのロックバンドに立ち戻ったかのようなシンプルな楽曲も幾つか制作。
同年2月、ウィーンへ。有名な国立歌劇場(オペラ座)真横のアパートでメンバーは共同生活をおこないながら、路面電車で今作のレコーディングスタジオの要である※フィードバック・スタジオへ通い、ベーシックトラックのレコーディングを開始する。空席であるドラムは、昨年から菊地悠也が担当している。メンバーは休みを利用し列車でチェコ共和国の首都、プラハへ行き、岸田はそこで「BREMEN」の歌詞を書き上げる。
※Feedback Studios Vienna〜アパートメントをリノベイトしたハウススタジオ。16trkのアナログマルチレコーダーや、ヴィンテージのプリアンプなどが揃う、ウィーンのエレクトロ・ダンスシーンの発信地であり、とてもアットホームでファミリアな雰囲気のスタジオである。
2月は15曲ほどのベーシック・トラックの録音を行ったがあまり順調とは言えなかった。機材の故障、言語の不一致によるコミュニケーション不足、複雑なアンサンブルの曲が多くなかなか最終形が見えにくい、などが要因であった。
3月頭、FM802主催のライブイベント出演のため一時帰国。ほんの数日の滞在で再びウィーンへ舞い戻る。時差ぼけの中、締め切りが迫る映画のエンディングテーマ※「言葉はさんかく こころは四角」などの録音に追われる。また、岸田はシングル候補最右翼として浮上した「JUBILEE」の歌詞を書かねばならず、プレッシャーでご飯ものどをとおらなくなり、精神状態はかなり最悪。
※映画「天然コケッコー」主題歌。2007年7月公開予定。
束の間の連休がとれたので、メンバーそれぞれ骨休みに出かける。岸田はブルガリア、佐藤はイタリア、菊地はトルコへ。岸田はブルガリアからそのままハンガリーのブダペストに移動し、「JUBILEE」などの歌詞を詰めるが、苦戦。
休み明け、岸田は※ガッツに歌詞の悩みについて打ち明け、話し込んだ結果、様々なことに関する視界が開ける。外国でレコーディングしているのに、悩んで悩んで視野を狭めていっても仕方ないではないかということに気づき、メンバー同士の会話であろうと母国語である日本語を使用禁止にした。スタジオには英語が母国語であるひとは誰一人いなかったのだが、みんな英語でコミュニケーションをとっている。以後、スタジオの雰囲気、レコーディングの雰囲気ともに一変する。
※Götz 'GG' Gottschalk〜今回のレコーディングで非常に重要な役割をになった人物。ドイツのレーベルプロデューサーでもある彼は、レコーディング全般のコーディネイトは勿論、多岐にわたるポジティブなアイデアをバンドに与え続けた。
3月半ばから4月にかけて、ヴォーカル録りを含めたオーバーダブの作業の日々。※パトリックの紹介でウィーン交響楽団のパーカッショニスト、フリップに「JUBILEE」などの弦アレンジを依頼する。デモをもとに作業を進めていくが、彼からのアイディアが素晴らしいものだったので、話し合いながら譜面を書いてゆく。これをきっかけに、ウィーン交響楽団のコンサートへ何度も出かけ、多くの刺激を受けた。
※Patrick Pulsinger〜Feedback Studios Viennaのオーナーであるととももに、自身もDJ、シンセサイザープレヤーとして活躍。とても明朗な人物で良いバイブを出し続けてくれた。
「JUBILEE」をアルフにミックスしてもらうと同時に、オーストリア人のエンジニア※ディーツにもミックスを依頼。両バージョンとも素晴らしい仕上がりとなる。
※Dietz〜ウィーンローカルのエンジニア。ウィーンフィルのサンプルライブラリーのテクニカルディレクターでもある彼のエンジニアリングは非常に緻密でダイナミックである。
3月末、アパートの契約が切れたので※Rennwegという場所にあるアパートに引っ越す。快適な居住環境。
※アルバム6曲目に収録されているRennweg Waltzはこの地名に由来する。
4月、ストリングスや幾つかのオーバーダビング作業のため、ウィーン郊外のハフナー・スタジオに移動し、ディーツとともにレコーディングをおこなう。プロデューサータイプのアルフとエンジニアタイプのディーツとの違いに戸惑うも、作業は続く。
4月半ば、再びフィードバック・スタジオに戻り、録り残していた幾つかの曲のベーシック録りをおこなう。同時に、急ピッチで作詞と管弦のアレンジ、佐藤が音素材を編集、ヴォーカルレコーディングなどを行うが、どう考えても時間が足りないことが発覚、この時点で既に20曲もの楽曲にとりかかっていた。泣く泣く楽曲を絞り込み、ディテールをつめていく。4月末からミックス&残りのヴォーカルレコーディングのためパリに移動するので、ここウィーンで楽器回りのレコーディングは全て終了させなければならない。レコーディング作業と平行してディーツが別のスタジオで数曲のミックスを手がける。
4月末、長きにわたって滞在したウィーンを離れ、アルフの本拠地であるパリへ移動。ミックスとヴォーカル録りを行う。岸田は最後まで残った未完成曲の作詞に大変苦労する。
5月頭から半ばにかけて、パリにてミックススタート。途中ベルリンに移動しPV撮影を行ったのち、結局ヴォーカルレコーディングはスケジュールリミットぎりぎり、予備日までフルに使い切りすべての録音を終了する。ロンドンへ移動し、メトロポリス・スタジオにてマスタリングを行うも、音の混ざりに満足できず、ハーフインチアナログマスターのぬくもりをダイレクトにパッケージすべく6月初旬リマスタリング、アルバムが完成する。