INTERVIEW

EUROPE初代担当者に、現・担当者が訊く


3月4日にEUROPEの通算10作目「WAR OF KINGS」がリリースとなります。ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが、EUROPEの日本デビューはビクターからだったのです。そして、世界中で最初に人気が出たのもここ日本です。そこで、これまでHELLOWEEN(アンディ・デリス期)、ANGRAと続けてきた『初代担当者に訊く』シリーズを、このEUROPEでも企画しました。今でもメンバーたちから当時のまま“TT”と呼ばれ慕われる初代担当ディレクターの堤氏にお話しを訊かせて頂きました。ビクターから一度移籍した過去と、解散を経験したバンドなので、そこらへんも興味深い話が訊けそうです。


現:まずはEUROPEとの出会いを教えてください。堤さんは、いつ、どうやってバンドを知ったのですか?

初代:きっかけは伊藤政則さんですね。当時から伊藤さんは海外に情報網をお持ちで、確かオランダの知り合いの人から、EUROPEのデビュー・アルバム「EUROPE」が伊藤さんの元に「こういうバンドがいるよ」と送られてきて。それを伊藤さんが聴いて、「これはいいバンドだ!」ということでビクターに持ちこんでくれたんですね。色々なバンドのアナログを何枚か持ってきてくれたんだけど、中でもEUROPEは「絶対いいから!」っておっしゃって。当時の僕の上司とふたりで“Seven Doors Hotel”を聴いたのが始まりですね。

現:それはビクターの社屋での出来事ですか?

初代:そう。まだオフィスは原宿のピアザビルという中に入っていて。その4階に洋楽部があって、隅っこにものすごく汚い倉庫みたいなミーティングルームがあって。4人入ったらいっぱいみたいな感じの。その中でアナログ・プレーヤーで聴いたんだよね。

現:海外ではすでに発売になっていたのですか?

初代:そうです。スウェーデン盤がHot Recordsから発売になっていて、それを伊藤さんが持ってきて、聴かせてもらったということですね。

現:アルバムの第一印象はどうでしたか?

初代:“Seven Doors Hotel”のイントロでドーンッ!ってきたよね。あの非常にメロディックな展開とね。打ちのめされたってわけじゃないけど、ものすごいインパクトを感じた。クラシック寄りのメロディが立っている叙情的な曲。それに歌詞の内容も、通常のロックのパターンではなかったから。叙情的と言えば叙情的な歌詞でね。そのときは、あまりスウェーデンのバンドであることは意識しなかったんだけど、後々になってそのへんがマッチングしたときに、「なるほどね」と思いましたね。

現:その音に衝撃を受けた後、すぐに契約しようということになったのですか?

初代:まさしく「すぐに権利元を探そう」となって、Hot Recordsの連絡先を探しましたね。

現:オファーしたときのことを覚えていますか?

初代:そもそもHot Recordsという会社も、当時のEUROPEのマネージャーのトーマス・アートマンが自分で作ったレーベルだったんですね。だから、世界的に認知されていないし、そのHot Recordsの所在なりは、どんな業界年鑑をひっくり返しても出てこないわけですよ。
……ちょっと話は逸れるけれど、で、このトーマスってのが、当時のスウェーデンのCBSレコードのプロダクト・マネージャーでもあって。副業か何かで、スウェーデンのバンドを集めてコンテストみたいなことを催して、それに応募してきたのがEUROPEの前身FORCEだったの。多分それでトーマスが目をつけてレコーディングさせて最初に出したのが、Hot Records版のEUROPEのファースト・アルバムだったんです。
……で、連絡先が全然わからないものだから、アルバムの裏に本国のファンクラブのP.O. BOX(私書箱)の住所が書いてあったから、そこへお手紙を書きました(笑)


現:ファンクラブに手紙を出したのですね(笑)

初代:手紙を送って、確か届くまでひと月くらいかかったと思うんですよね。「日本のレコード会社、ビクター音楽産業の者です。EUROPEのアルバムをぜひ日本で発売したいので、『ここ宛に連絡を下さい』と、事務所なりマネージャーなりに伝えてください」というのがファンクラブ宛に出した手紙の内容です。そしてトーマスからFAXで返事がきて。そこから先は話が進むのは早かったね。先方もまさか遠い日本からオファーがくるなんて思ってもなかっただろうし、東洋の神秘の国ってことで憧れもあっただろうから(笑)、そういうオファーが届いたからわりとすぐにまとまったね。

現:今の感じですと、アドバンス(印税前払い金)も破格というわけではなかったのですか?

初代:アドバンスはねえ…、3,000ドル。

現:あのEUROPEをわずか3,000ドルで!当時の他の契約に対するアドバンスと比較するとその3,000ドルという金額はどんな規模なのでしょうか?

初代:当時のロック系の新人アーティストへのオファーの最低額に近い金額。はじめてやり取りする契約先からの新人ということで、様子を見る意味もあっての金額だったのだと思います。

現:レート的には…

初代:あのときはまだ…、1ドル=230円くらいじゃなかったかなあ…。まあ、70万円くらいだね。

現:なるほど。伊藤さんがビクターオフィスに持ち込んだスウェーデン盤が現地ですでにリリースされていたということは、輸入盤として日本に入ってきたりもしたのでしょうか?

初代:可能性はゼロじゃないけれど、オランダにスウェーデン盤が輸出されたのを伊藤さんの知り合いが買って送ってきたということは、タイミング的に考えると、日本に輸入されていた可能性はかなり低いんじゃないかな。スウェーデン盤だけが祖国のインディーレーベルから出てました、ってレベルだったので。

現:そうなると、EUROPE獲得で競合した日本のレコード会社はなかったのでしょうね。

初代:日本ではなかった。ただ競合したと言えば、アメリカのCBSレコードでした。

現:というと、アメリカのCBSが日本の権利も獲得しようとしていた、と。

初代:そう。トーマスがCBSのプロダクト・マネージャーだったってのもあって、彼としてもワールドワイド契約を最初は獲ろうとしていたから、CBSレコードにはプレゼンをしていたんですよね。反応は悪くなかったらしく、CBSとのワールドワイド契約がある程度進んでいた状態ではあったようなんですよ、あとから聞いた話では。そしてビクターが日本から途中参戦してオファーしたときに、トーマスとしては「日本だけ外してくれ」とCBSに話をし、CBSとしても「新人だし、まあいいか」ということになったんじゃないですかね。

現:CBSは後々後悔することになるわけですね(笑)

初代:そうですね。ただ、ビクターとして契約したのは、デビュー作を入れて最初の4枚のアルバムだったので、結果的に5枚目はCBS傘下のEpicに移ってしまうわけですけどね。

現:よくワールドワイドで契約しようとしていたところに、破格の金額でオファーしてきたわけでもない日本のレコード会社と契約しようと思ってくれましたね。

初代:やっぱりファンクラブに手紙送ってくるのが余程珍しかったんじゃないですかね(笑)

現:なるほど(笑)でも、それだけ自分達のことを気に入ってくれてるんだとバンドとマネージャーは感じたのかもしれませんね。ちなみに、ファースト・アルバムは日本でどのくらい売れると思いました?

初代:そうですね。北欧のロック・バンドは当時まだ珍しく、音楽的な競合が全くいなかったし、ジョーイ・テンペストをはじめルックスも良く、MUSIC LIFEとかViva Rockといった専門誌の女性編集者の方々の受けも良かったんですよ。だから、5,000枚から10,000枚というのはデビュー・アルバムの射程には入れてましたね。

現:当時そこそこの新人だと、日本でどのくらい売れていたものなのですか?

初代:このジャンルでは、余程海外で話題になってドカッと売れていない限りは、3,000〜5,000枚というがひとつの目安だったかな。

現:となると、5,000〜10,000枚を見越してたということは、EUROPEを大型新人と捉えていたわけですね。

初代:ロケットスタートを切るだろうなとは思っていました。ルックスの良さも手伝って。

現:そのルックスにも関わってきますが、オリジナルのスウェーデン盤は、4人のメンバーが並んだ写真がジャケットでしたが、日本盤は宮殿が背景にあって石像が左右に立っているイラストに差し替えられていますよね。これは堤さんのアイディアで?

初代:そう。僕と、当時はまだビクターに社内デザインチームがあって、そことのアイディアですね。邦題は「幻想交響詩」ということにして、これは当時MUSIC LIFEの副編集長だった酒井(康)さんと色々な話をしている中で生まれた邦題なんだけど、日本用のジャケットも、バンドや曲のイメージから作り上げていったプロセスでしたね。

現:とはいえ、ルックスが良いメンバーの写真をあしらったジャケットを、別のものに差し替えたというのは、余程オリジナルが「残念」なデザインだったということでしょうか?

初代:スウェーデン盤のジャケットにあったあの写真は即ボツ。

現:(笑) せっかく良い素材なのになんでこの写真なんだということですね。

初代:まあようは、ただ4人が並んでスナップショット撮りましたという印象の写真だったので勿体ない、と。あと、決して覆面バンドで売り出そうというわけじゃないけれど、曲やアルバムのイメージからすると、あのジャケットはミスマッチングだなと思いましたね。だから、ヨーロッパの庭園風な建物とロゴマークでいこうと決めて、日本盤のジャケットが完成しました。

現:日本盤のジャケットは、元々1枚の絵だったのですか?

初代:貸しポジ屋で借りた2枚の写真。宮殿が写ったものがメインの1枚で、両脇に立っている銅像が1枚。実はあの対になった銅像は、1枚の写真を反転させているだけなんだ。貸しポジ屋さんが持ってきてくれた色々な写真を見ながら、選んで、ああいうイメージになっていきました。

現:日本で独自に作った絵をマネージャーやバンドに見せたとき、先方の反応はいかがでしたか?

初代:喜んでたね。

現:後々日本盤のアートワークが、ワールドワイドのデザインとして採用されていますが、どういう経緯でそうなったのですか?

初代:まあ気に入ってくれたから採用してくれたんだろうけど、実際その判断を、バンド、マネージャー、CBS、誰が下したかはわからないですね。でも、とにかく使わせてほしいという連絡がきて、貸しポジだったからワールドワイドでバイアウト(買い取り)できているのかという確認はありました。

現:その日本盤の帯に、「ブリティッシュ・ハードの真髄が甦る!」というキャッチコピーが書かれているのですが、スウェーデンのバンドに「ブリティッシュ」と付けるのは結構大胆なことだと思います。それは当時まだ「北欧メタル」や「北欧ハード・ロック」という表現がなかったからでしょうか?

初代:まず「北欧メタル」という言葉は当時まったくなかったし、バンドの存在もほとんど日本で認知されていなく、しかも北欧/スウェーデンの音楽というとイメージは完全にABBAだったから。

現:あー、なるほど。

初代:で、当時メタルは基本ブリティッシュかジャーマンの二択で。そういった中で、デビュー・アルバムの内容から見ると、“王道”のブリティッシュだろう、と。KING CRIMSONとまではいかないまでも、一種のプログレに近い展開、それに通じる叙情性みたいのがあったからね。

現:“様式美”というやつですね。それが、ブリティッシュかジャーマンかでいうと、ブリティッシュに近い、と。まあ、「北欧ホニャララ」と付けて、お客さんに音のイメージが伝わらなかった意味ないですからね。だから、あえて分かり易い形で「ブリティッシュ・ハード」という言葉をキャッチコピーに入れたということですね。では、リリースした当初、日本のハード・ロック・ファンの反響はどうでしたか?

初代:“Seven Doors Hotel”に関しては、反響は大きかったですね。ただ、一般のラジオとかにはほとんどかからなくて。当時は音楽専門誌が中心だったから、それを読んで実際にアルバムを買っていくという売れ方が主要パターン。各雑誌も色々な形で取り上げてくれて、話題性が3ヶ月なり4ヶ月なり続いていったから、流れとしては非常に良かったですね。

現:ルックスも良いから扱いやすかったでしょうね。日本でファンクラブが発足したりはなかったですか?

初代:いわゆるビクター公認なものはなかったね。

現:ところで、先程セールス目標は5,000〜10,000枚とおっしゃっていましたが、実際はどのくらい売れたのですか?

初代:その後何度もリイシューしたものを除けば、デビュー・アルバムは5,000枚に届いたか届かなかったかという感じかな。

現:それはちょっと驚きです。“Seven Doors Hotel”みたいな人気曲も入っていますし、もっと売れていたと思っていました。

初代:アルバムとしてはそこまで大きな動きはなかったですね。

現:初回出荷数は?

初代:3,000くらいじゃなかったかな。ただ、あの手のバンドで面白いのは、シングルがよく売れたの。シングル「SEVEN DOORS HOTEL」が、当時新宿のツバキハウスとかのディスコでやってたロック・ナイトでたくさんかかって、曲としての認知度が高まって。これはもうメンバーのルックス関係なく、曲の良さで広まっていったんですね。そういえば、シングルとアルバムの“Seven Doors Hotel”のミックスは違うものなんだよ。

現:それは海外盤のシングルのミックスがそうだったから、日本もそれに準じたという形ですか?

初代:そうだね。「シングルを出すから、それ用のマスターがあったら送ってほしい」とHot Recordsにリクエストして、送られてきたマスターから作られた盤を聴いたらミックスがアルバム・ヴァージョンと違ってて。だから、シングルを出したのはアルバム発売のあとだったと思います。

現:ということは、先行シングルではなく、シングル・カットだったんですね。

初代:そう。それで、デビュー・アルバムを日本で出した時、すでに2ndアルバムもほぼほぼ出来上がっていたんです。だから、1stと2ndの間って、日本では相当短かったはず。1年ないくらいかな。

現:確かに、海外でも1st「EUROPE」は83年3月発売で、2ndの「WINGS OF TOMORROW」は翌84年2月発売なので。日本のデビューが海外から遅れたということは、さらに2ndアルバム発売まで日が近づいたということですね。ところで、1stアルバム「EUROPE」は、どのようなマーケティングを?

初代:デビュー作は、極々オーソドックスな売り方でしたね。それ以上は、あまりはじめからテレビやラジオで騒ぐみたいなやり方はやっていない。

現:日本の媒体がはじめてメンバーに対面取材をしたのは、83年夏にスウェーデンのストックホルムでの伊藤さんのインタビューだと思うのですが、それには同行されたのですか?

初代:あのときは同行していないかな。あのときは伊藤さんが他社メーカーさんのアーティストの取材か何かでロンドンに行かれると聞いて、「じゃあ途中でストックホルムもお願いします」と(笑)

現:では、堤さんがはじめてメンバーに会ったのはいつ、どこでですか?

初代:それは、2ndアルバムの発売前のタイミングで、ジョーイ・テンペストだけ日本にプロモーションに呼んだ時です。

現:ジョーイの第一印象はどうでしたか? 年齢的には、堤さんよりも年下かと思いますが。

初代:ピッカピカで、若干まだあどけなかったけど、スター性バシバシのカッコいい男でしたね。髪は金髪のロン毛で、目鼻はキリッとしてるし。デビュー時は少しぽっちゃりしていたけど、その時はある程度痩せてきていたから、なかなか精悍な顔つきでしたね。

現:今でこそスウェーデンの人は母国語のように英語を扱いますが、当時ジョーイはどうだったのですか?

初代:あ、しゃべってたしゃべってた。やっぱりスウェーデンの人たちは、幼稚園くらいから勉強するから、歌うときみたいにナチュラルに英語を発音してたね。まあ、ボキャブラリーの部分では多少ネイティヴというわけにはいかないけど。マネージャーのトーマスとは、もちろんスウェーデン語で話していました。

現:プロモーション来日は、ジョーイとマネージャーのトーマスの2人だけだったんですか?

初代:そう。彼らはアメリカにCBSレコードとの契約の話をしに行った足で、日本に来たんだ。

現:そうしてプロモーション来日もした2ndアルバム「WINGS OF TOMORROW」が84年にリリースされるわけですが、最初に音を聴いたときの感想は?

初代:すごくしっかりまとまったアルバムだな、と思った。あと、ポップ色が前作よりも立っていたから、煌びやかな印象でしたね。アートワークも、デビュー盤とはまったく違ってカッコいいものがいきなりポーンと出てきたから、「こりゃいいわ」って。

現:曲のクオリティは圧倒的に高まっていたということですね。

初代:曲が良くなったというよりは、まったく異質なアルバムという印象かな。デビュー作がギター・アルバムで、2ndアルバムは煌びやかでポップな印象だったから。

現:2ndアルバムを聴いた日本のファンの感想はどうでしたか?

初代:デビュー・アルバムから間が空いていなかったから、特に前作と比較してどうこうというコメントはなかったのではないかな、と思います。デビューして、“Seven Doors Hotel”だ、様式美だ、と言っているところで、次のアルバムでジャンル的/音楽的な広がりが出てきたというとこで。

現:そのアルバムからのシングルですが、本国のHot Records盤は、A面が“Lyin' Eyes”で、B面が“Dreamer”なのですが、日本はA面とB面が逆になっていて、「DREAMER」のシングルとしてリリースされていますよね。これは何故ですか?

初代:それは日本向けということでひっくり返したんだと思います。日本人はバラードを好むということで。

現:デビュー・アルバムが5,000枚くらいいったということでしたが、2ndアルバムはどうだったんですか?

初代:デビュー作を上回りはしたけど、そんなにドカーンと売れたというわけではない。「THE FINAL COUNTDOWN」のときにドカンとヒットしたから、最初の2枚のときはスローペースってわけじゃないけど、ビルドアップしている感じでしたね。

現:1stと2ndの発売時期が近いというのもあって、2ndだけがガッと売れるというのはなかったかもしれませんね。

初代:そうですね。むしろ1stと2ndから来日へ向けてどう繋げていくか、という流れを考えていました。だから、ジョーイにプロモ来日してもらったときも、日本の呼び屋(コンサートプロモーター)さんにも正式に紹介してまわったりもしたね。

現:それでは何故2ndアルバムを引っ提げての初来日公演は実現しなかったのでしょうか?

初代:やっぱり呼び屋さんとしては儲かるって判断がなかったんだろうね(笑)

現:当時はまだアルバム1枚、2枚出したくらいの新人は、まだほとんど呼ばれていなかった時代だったんですか?

初代:そんなことはないけど、基本日本でデビューさせる前に、イギリスなりドイツなりで実績があったりしたんですよね、来日できる新人バンドは。祖国でクラブツアー規模のこともやっていて、そういう事前情報やファンベースがある状態で、いよいよ日本デビューですよ、というのが、ひとつのオーセンティックな流れだったわけです。それで言うと、EUROPEは本国での実績はゼロ、欧州大陸でもゼロ、アメリカなんてもっての外という感じで。日本だけで盛り上がりつつあるという状態だったから、呼び屋さんとしても手を出しにくいというのがあったんだと思います。

現:「あの海外で話題の●●が待望の来日!」という言い方が出来ないということですね。ちなみに、2ndアルバムではジョーイを日本に呼んだこともあって、日本からスウェーデンに取材に行ったというのはなかったのですか?

初代:いや、何人かの方々には行ってもらいましたね。私も同行しました。

現:そのときがジョーイ以外のメンバーに会ったのは最初だと思いますが、ジョン・ノーラムの第一印象はいかがでしたか?

初代:彼はすごく大人しいヤツでしたね。無口。

現:ジョン・ノーラムはノルウェー人ですよね?

初代:そう、ノルウェー。だから英語もスウェーデン人ほど得意ではなく、そういったこともあって無口だったのかもしれない。まあ、スウェーデン人のジョン・レヴィンも無口だったけど。

現:そして、その後、世界的な出世作となる3rdアルバム「THE FINAL COUNTDOWN」が86年に出てくるわけです。このアルバムは、EUROPEだけではなく、ロック・シーンの中でも超大ヒット作となったわけですが、最初に音を聴いたのは?

初代:カセットテープが海外から送られてきて、会社のキャビネットのところに置いてあった汚いラジカセで聴いたのが最初です(笑)

現:日本人で一番最初に“The Final Countdown”を聴いたのは堤さんですね。

初代:まあ、フロアに皆いたけどね(笑)

現:曲の感想は?

初代:やっぱり「スゲー曲だなあ」と思った。イントロからの広がりとか、すごく印象に残っています。

現:アルバム全体は?

初代:ほぼ同じタイミングでアルバム全曲入りのカセットテープも届きました。そのときも日本でのシングルどうしようか、という話になって。“The Final Countdown”にするか、“Rock The Night”にするか。結局、“The Final Countdown”になったけど。

現:海外では、「ROCK THE NIGHT」の方が、アルバムの先行シングルとしてリリースされていますね。

初代:海外ではそうだね。で、そのときは、「THE FINAL COUNTDOWN」のアルバム・リリースの準備は、Epicとビクターとで共同でやっていたんです。日本以外はCBSと契約して、レーベルはEpicになったから。それで、アメリカでのマネジメントを何社か推薦して、その中から最終的に決めたのが、JOURNEYのマネージャーだったハービー・ハーバート。日本でデビューから色々画策している段階で、音楽出版を当時エイプリルミュージックにお願いしていたんです。かつてCBS時代にJOURNEYのディレクターをやられていた森下(彰夫)さんがエイプリルミュージックでEUROPEの担当になって下さった流れで、ハービー・ハーバートに森下さんからもEUROPEを売り込んでもらいました。ハービーも「これはいい」ということで、EUROPEのマネジメントを引き受けてくれて。そのハービーはJOURNEYを担当したから、アメリカでのラジオ局に対してすごく影響力があった。彼の仕込みがあったから、“The Final Countdown”がアメリカで大ヒットしたわけ。そういった裏方のスタッフィングがちゃんと組めてたというのが、EUROPEがアメリカでいきなりブレイクできた大きな要因だと思います。

現:では、まさしく、あの曲があって、そのマネジメントがあって成立したアメリカでのヒットだったというわけですね。

初代:あと、ニューヨークのEpicのプロダクト・マネージャーがディアルマッド・クインという人だったんだけど、これもまた優秀な人でね。ハービー・ハーバートと連携して、ラジオを攻めるというやり方を徹底して。アメリカにおいて知名度ゼロの新人バンドを、どうやって露出するかとなったときに、「まずはラジオだ」ということになりまして。

現:日本では“The Final Countdown”はEUROPEを次のステージへとグッと持ち上げた曲になったのですか?

初代:結果的にはそうだね。アメリカでのBillboardチャートのランクインと同時期に、日本でも展開できたことが、それに繋がって。さっきも言ったとおり、このアルバムを売るにあたって、“綿密”とまではいかないまでも、ビクターとEpicでかなり打ち合わせをしてね。だから、“The Final Countdown”のミュージックビデオはストックホルムで撮影してるんだけど、予算限られているところでどういったビデオを撮ろうか相談して、ストックホルムで撮影しようということになって。

現:でも、あのビデオ、当時としてはお金かかっている感じがしますよね。

初代:あれはヘリコプターからの空撮だからね。Epicの企画力の勝利だね。

現:なるほど。それでは、堤さんが最初に“The Final Countdown”を聴いたとき、その曲が後々これほどまでの大ヒット曲になると思いましたか?

初代:それは思わなかったな。オルガンも印象的で良い曲だなと思ったけど、さすがにあんなに大ヒットするとは思わなかった。

現:個人的には、キーボード・リフで始まる曲で、ギターのリフが前面に出ているわけではなく、これまでのEUROPEの曲と趣きがかなり違う曲だと思うんです。そこに対して日本のファンは、「今までのEUROPEがよかったのに」みたいな頑固なファンはいなかったのですか?

初代:デビュー当時からのコアなファンはそう思ったかもしれませんね。だけど、“The Final Countdown”のシングルが日本でも売れて、完全に日本国内でも売れていくチャンネルがガラッと変わってね。それまでは音楽専門誌で、メタルの範疇で語られていただけだっだのが、いきなり「ベスト・ヒットUSA」の世界になっちゃったわけですよ。

現:急にロック・スター、ポップ・スターのところまでいってしまったのですね。

初代:それは当時の洋楽部の宣伝スタッフもラジオとテレビで目一杯がんばって、アメリカのチャートとも連動して、いきなり日本でも大ヒットしたというわけ。だから、そういった意味では、それまでのEUROPEとはまったく別物ということだよね。

現:それだけの全世界的なヒットがあって、バンドを取り巻く環境に変化はありました? 例えば、各国から取材のリクエストが殺到して、日本のリクエストが通るまでに少し時間がかかるようになったりとか。

初代:環境は変わっただろうね。実際バンドとしてツアーに出られるようになったので、ツアーに時間がかなり割かれるようになり、そんな状況下にあって各国から取材だの何だと殺到していたと思うから。でも、日本については常に優先的に考えてくれていたと思います。

現:最初に見つけて、育ててくれたという恩もありますしね。セールス的には、前2作よりも遥かに?

初代:もう何倍って感じ。当時のハード・ロック/ヘヴィ・メタルの規模ではなかったですね。

現:それはスゴイですね。ところで、収録曲の“Love Chaser”が、『プライド・ワン』という邦画の主題歌に採用されて、シングル・カットもされていますが、どういう経緯があって決まった話ですか?

初代:あんまり覚えていないんだよね(笑) それまでも色々と仕込んでいたところのひとつが、たまたま実現したって感じかな。

現:映画自体はヒットしたのですか?

初代:しませんでした。

現:ははは(笑)

初代:カーレーシングのドキュメンタリーみたいな映画だったんですが、有名な俳優さんが出演したわけでもなく。

現:なるほど、わかりました(笑) “Carrie”も同様にシングル・カットされていますね。あのシングルのジャケットも、海外盤と日本盤で違いますよね?

初代:まあ、EUROPEのジャケットって、「WINGS OF TOMORROW」以外は…(苦笑)

現:確か、アルバム「THE FINAL COUNTDOWN」のジャケットも、最初は酷いイラストが候補だったとか。

初代:スウェーデンのホテルで見せてもらって、「これ、本当にどうしようかな」って弱っちゃって。

現:それって、ジョーイがLAでまだレコーディングしていたってタイミングですよね?

初代:そう。ツアーをやっていたってのもあって、半分声が潰れて、予定のスケジュールどおりにヴォーカル・レコーディングが終わらなくて。でも、アルバム発売は後ろにずらせない。だから、ジョーイはLAまで急遽レコーディングしにいったんだ。ただその行った時期が、日本から伊藤さんと一緒に取材のためにストックホルムに行ったタイミングと重なったという。

現:それ、マネージャーは何も伝えてこなかったんですか?

初代:「それ言えよな」って話だよね(笑) 我々はストックホルムに到着してからジョーイがいないということを知ったわけ。

現:取材はどうしたんですか?

初代:電話インタビューですよ(笑) スウェーデンまでわざわざいって、アメリカにいるジョーイに電話をするという(笑) ストックホルムのホテルから、僕が通訳として間に入って。

現:三者間通話みたいな感じですね。それでは、そんな大変な取材を経た「THE FINAL COUNTDOWN」を引っ提げ、86年9月、ついに初来日公演が実現します。

初代:いきなり中野サンプラザだったね。当時としては、かなりの大物と同じクラスで扱ってもらえました。UDOさんに呼んでもらったんだけど、UDOさんとしてもアメリカで大ヒットしたバンドとして捉えてくれて。

現:地方公演はどうだったんですか?

初代:確か大阪と名古屋だけだったと思う。

現:日本のファンにとって待ちに待った来日だったので、他の土地の公演があってもおかしくないものかと思いますが。

初代:待ちに待ったとはいえ、シングル・ヒット1曲だけだから。これも呼び屋さんからしたら、集客の読みは難しかったんでしょうね。

現:初来日のエピソードはありますか?

初代:ジャパン・ツアーの最後の方で、ミックが肺炎にかかっちゃって。でもまだテレビの収録が残っていてね。何とか頑張って出演してくれて、ツアーが終わってスウェーデンに帰っていったという。

現:それは…。ただの風邪じゃなく、肺炎というのが痺れますね。

初代:すごく咳してたね。

現:その後、ジョン・ノーラムが脱退しますが、来日時に前兆みたいなものはありましたか?

初代:そういう雰囲気はなかったですね。

現:堤さんが脱退の情報を知ったのはいつですか?

初代:多分、脱退したあとじゃないかな。

現:どう思いました? やっぱり、テンペストとノーラムの二枚看板だったと思いますが。

初代:初期のコア・ファンは離れるだろうな、と思いました。やっぱりギター・バンドとしてのEUROPEが好きだった人もたくさんいたので、ギター・ヒーローとしてのステータスを確立していたジョン・ノーラムの脱退はかなり痛手だな、と。

現:後任にキー・マルセロが加入しますが、彼の第一印象は?

初代:ノーラムに比べると、ゴリゴリのギタリストという感じではなく、どちらかというとプロデューサー肌の人だと感じました。ルックスもノーラムとは全然違うタイプだし、バンドのイメージが少し変わっていくなと思いましたね。

現:その新ラインアップになって、4枚目の「OUT OF THIS WORLD」が88年にリリースされます。「THE FINAL COUNTDOWN」でそれだけのヒットを飛ばしただけに、新作を売ることへのプレッシャーは感じましたか?

初代:それなりに。僕はプレッシャーを感じなかったとして、周りは「売れて当然」と思っているわけですからね(笑)

現:バンドもそういった重圧は感じていたんですか?

初代:彼らはものすごいストレスだったと思います。アメリカであれだけのヒットを飛ばして、長期のツアーでの疲弊はかなり感じていただろうし。楽しい部分もあっただろうけどね。

現:「OUT OF THIS WORLD」の感想は?

初代:「あ、また変わった」と思った。

現:具体的には?

初代:良い悪いではなく、ダークになったな、と。

現:日本のファンの反応は?

初代:賛否両論だったね。離れたファンはいたと思います。

現:そうですか。そして、このアルバム最後に、再結成までバンドはビクターを離れます。3rdアルバム以降、日本以外のワールドワイドで所属していたEpic(CBS)に移籍してしまい、「PRISONERS IN PARADISE」は日本でもEpicからリリースされるわけです。これはどうしようもなかったことだったのですか?

初代:それはどうしようもなかったです。4枚目まではビクターが日本の権利を持っているけれど、それが終わったら5枚目からはEpicで、ということは、2ndのレコーディングをしているときにすでに決まっていたことだったから。

現:引き続き担当できなかったのは、やはり遺憾でしたか?

初代:それはすごくありましたね。

現:そして92年にEUROPEは解散します。そのときはどう思いましたか?

初代:「やっぱり疲れたんだろうな」と。ツアーだったり、曲作りだったりに。なんだかんだ言っても、スウェーデンの素朴なおニイちゃんたちだから、世界的なロック・スターになったときのギャップに悩んだんだろうね。それにうまく順応できるかどうかで、ジョーイは順応していたかもしれないけど、他のメンバーは難しかったのかもね。

現:ジョン・ノーラムが辞めたのも、そういった理由が…。

初代:まあ、あったかもしれない。あと、やっぱりいきなり3rdで商業的な路線にいったから、それは彼が目指すところとは違ったんだろうね。

現:バンドは一旦解散するも、2003年に再結成を表明して、翌年「START FROM THE DARK」で復活します。そのときにすでに堤さんは洋楽部を離れられていたかと思いますが、EUROPEが復活して、ビクターに復帰すると聞いて、どう思いましたか?

初代:嬉しかったですよ。解散までは仕方ないとして、そこからまたやり直すというエネルギーを持っているということと、黄金期のメンバーがちゃんと集まるということでね。そのへんが、さっき言った素朴なおニイちゃんじゃないけど、昔の同窓生・同級生でもう一度頑張ってみようというような気持ちがメンバー間にしっかりあったんだな、と感じた。それに、再デビューがいかに難しいか分かった上で、あえて挑戦するところに、「コイツら、自分達の志を実現しよう」という意思がしっかりあったんだなと思ったね。

現:そうですか。未だにインタビューなどで、「マサ(伊藤政則氏)とTT(堤氏)のおかげで、日本に紹介してもらって以来、日本は僕らを応援し続けてくれている」とリップサービスでなく言い続けているんです。

初代:そういってもらえると嬉しいですよね。

現:まさしく伊藤さんと堤さんが日本に紹介したわけですしね。

初代:伊藤さんがアルバムをビクターに持ちこんでくれたというのは、僕もかなり初期の段階でメンバーに刷り込んでいたからね(笑) 彼らからしても、アメリカで成功を収めるまでの間、日本から盛り上げてくれたという実感を持ってくれたんでしょう。

現:3月4日に、通算10作目「WAR OF KINGS」というアルバムが出ます。正直なところ、音を聴かれてどう思いましたか?

初代:僕は、それこそ「WINGS OF TOMMOROW」とかその頃の時代の音に戻った印象を受けましたね。曲調としても少し明るくなって、速い曲もあって。再結成後って、みんなダークな感じだったじゃない。それに比べると、昔のひとつの形に戻ったと思ったね。“War Of Kings”はもちろん良いと思ったし、あと面白いなと思ったのが“California 405”。これ、あそこのインターステイト(州間高速道路)だよね。それから、“Days Of Rock ‘N’ Roll”も良かったし。

現:ありがとうございます。では、堤さんが一番好きなアルバムは何ですか?

初代:アルバムは「EUROPE」。で、曲はその1曲目の“Seven Doors Hotel”ですね。“King Will Return”なんかも好きだったけどね。思い起こすと、やっぱりあのアルバムのあの雰囲気が非常に印象に残っていますね。

現:ということは、EUROPEで最初に聴いた曲が一番好きだということですね。

初代:そうなるね。耳にした回数は“The Final Countdown”かもしれないけど、やっぱり“Seven Doors Hotel”かな。

現:では最後に、堤さんにとってEUROPEというバンドとは?

初代:スウェーデンと日本で物理的な距離は離れていたけど、「同志みたいな存在」ですね。彼らは彼らで新人としてしゃにむに頑張り、僕としても洋楽ディレクターとして「堤印」みたいなアーティストを出してやろうと思っていた中で、協力し合いながら、結果的にひとつのヒットという形に繋がっていきました。そういった意味で、「同志」かな。彼らのデビュー当時、僕もまだ27とか28で、メンバーは20代前半だったから、ピカピカの20代のバンドとディレクターが一緒になってね(笑)



<EUROPE「WAR OF KINGS」2015年3月4日発売!!>

 EUROPE
 タイトル: WAR OF KINGS
 発売日: 2015年3月4日(水)
 品番:VICP-65293
 価格:¥2,500+税

解説:伊藤政則氏
備考:ボーナス・トラック1曲収録

<収録曲リスト>
02. Hole In My Pocket / ホール・イン・マイ・ポケット
03. The Second Day / ザ・セカンド・デイ
04. Praise You / プレイズ・ユー
05. Nothin' To Ya / ナッシン・トゥ・ヤ
06. California 405 / カリフォルニア405
07. Days Of Rock ‘N’ Roll / デイズ・オブ・ロックンロール
08. Children Of The Mind / チルドレン・オブ・ザ・マインド
09. Rainbow Bridge / レインボウ・ブリッジ
10. Angels (With Broken Hearts) / エンジェルズ(ウィズ・ブロークン・ハーツ)
11. Light It Up / ライト・イット・アップ
12. Vasastan / ヴァサスタン
Tr.12: BONUS TRACK

Produced by Dave Cobb
Recorded at PanGaia Studios, Stockholm, Sweden
Engineered by John Netti
Mixed by John Netti, Vance Powell & Eddie Spear
Mastered by Peter Lyman at Infrasonic Mastering

http://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A002399.html