INTERVIEW

HELLOWEEN担当(三代目)にHELLOWEEN担当(五代目)が訊く


1980年代、1990年代、2000年代、2010年代と、4年代にわたってHR/HMシーンで活躍してきたメロディック・パワー・メタルの権化HELLOWEEN。ここ日本でもっとも一般層にまで浸透していた90年代、バンドとしての成長を他の日本人の誰よりも間近で目撃していた、アンディ・デリス加入後最初のHELLOWEEN担当ディレクター(通算三代目)に、ワタクシ現在の担当ディレクター(通算五代目)がインタビュー。昔を振り返り、今だから明かせる当時のHELLOWEENを語ってもらいました。


五代目(以下、五):三代目さんが、最初に担当ディレクターとしてHELLOWEENに関わったのはいつですか?

三代目(以下、三):「CHAMELEON」(5作目/93年発表)のあとのジャパン・ツアーだね。このときはインゴ(・シュヴィヒテンバーグ/ds/故人)が抜けて、リッチー(アビデル・ナビ/ds)っていう全然メタルじゃないドラマーが入ってね。ヴァイキー(マイケル・ヴァイカート/g)の友達だったのかなぁ…、確か。

五:そのリッチーはサポート・メンバーですよね?

三:そう。ちなみにインゴは、その前のアルバム「PINK BUBBLES GO APE」(4作目/91年発表)のツアーのときから様子がおかしくてね。そのときは先輩の二代目さんが担当していたんだけど、広島かどこかの地方公演のときに精神状態が安定しなくて、ステージ上で泣きながらドラムを叩いていたりなんかして、結局「CHAMELEON」のレコーディングが終わったあとインゴは脱退してしまうんだ。それで「CHAMELEON」のツアーでは、そのリッチーが帯同したわけ。で、「CHAMELEON」自体が、わりと問題作という評価を受けていたんだけど、ジャパン・ツアーの会場の規模はかなり大きめで、場所によってはお客さんの入りが心配されてね。おまけにメンバー間の関係もあまり良くない時期で。

五:それは特に誰と誰が?

三:まあ、“(マイケル・)キスク”と“その他”だなあ…。

五:その当時「もうメタルを歌いたくない」と言う“キスク”と“その他”ということですか。

三:うーん、そのときは具体的にどうだったのかまでは分からないけどね。

五:じゃあ、担当ディレクターとしてではなかったけれど、HELLOWEENのメンバーと初めて会ったのは「PINK BUBBLES〜」のジャパン・ツアーのときということですね?

三:そうだね。「PINK BUBBLES〜」の来日のときに、何かしら二代目さんの手伝いをしていて、それがバンドとの初対面だね。

五:そのときには、まだメンバーと世間話したりというワケではなく、単純に手伝いをしていたという。

三:うん。

五:それで「CHAMELEON」を二代目さんが担当したあと、その後のジャパン・ツアーから三代目さんが引き継いだのですね。

三:そう。

五:初めて実際に担当ディレクターとして接したマイケル・ヴァイカートという人は、どういう印象でしたか?

三:ヴァイキーはね、とにかく何を言い出すか分からない危険人物、ある意味(笑)。インタビューにはあんまり声かけなかった。

五:それはインタビュー中に変な受け答えしたりする可能性があったからですか?

三:そうそう(笑)。例えば、録音用のマイクを見つけると、いきなり「バンバンバンッ!」ってその近くを叩いたりね。あとは、しゃべりだすと質問と違う方向に話をもっていって終わらないとか。アブないんで取材には出さず(笑)、だいたいキスクとローランド(・グラポウ/g)のコンビに取材を受けてもらっていたね。

五:なるほど(苦笑)。では、マイケル・キスクは「CHAMELEON」のツアーを最後に脱退するわけですが、そのツアーでの様子はどうだったのですか?

三:キスクはとにかく表を出歩かないんでね。基本的にホテルの部屋に篭りっぱなし。でも取材はちゃんと対応してくれていたと思うよ。だから、そういった意味では接触はあまりなかったね、取材以外では。

五:ヴァイキーと同じくオリジナル・メンバーであるマーカス・グロスコフ(b)はいかがでしたか?

三:マーカスはね、いわゆる楽天的なロックンローラー。この頃から、日本に来ると必ず横浜の彫り師のところに行って刺青を入れてもらっていたね。でも、マーカスが思ったとおりに彫り師に伝わらなかったら危険だから、ビクターの海外渉外スタッフが通訳として付き添ってた(笑)。結構恐い場所だったみたいで、そのスタッフには申し訳ないことをしたよ(笑)。

五:(笑)。じゃあ和彫りだったんですね。

三:うん、由緒正しい刺青屋さん(笑)

五:「CHAMELEON」のツアーには参加しませんでしたが、インゴとの思い出はありますか? 残念ながら、彼は自ら命を絶ってしまうのですが。

三:さっきも言ったとおり、「PINK BUBLES〜」のツアーのときは手伝いだったから全然接触してないんだ。でも、彼ってルックスがよかったんだよ。だから、ヴィジュアル面でも非常に重要だったんだけど、あんまり取材とかに出てくるようなタイプじゃなかったんじゃないかな。

五:なるほど。それでは、三代目さんが最初に担当したアルバムは、「MASTER OF THE RINGS」(6作目/94年発表)ということですね?

三:うん。

五:最初にアンディ・デリス(vo)という人物がバンドに入ると聞いたとき、彼のことはご存じでしたか?

三:もちろん。当時ソニーがPINK CREAM 69(以下PC69)をすごく一生懸命やっていて、PC69担当のソニーのディレクターさんとも仲良くさせてもらっててね。いわゆるジャーマン・メタルって、基本的に“メロディック”で“ファスト”で“コテコテ”っていう概念で捉えられていたので、人によっては「PC69はジャーマン・メタルじゃない」という意見もあった。「だからこそ良いんだ」って人もいたけどね。アートワークとかもオシャレな感じがしたし、個人的にはすごく好きだったんだ。だから、アンディが加入すると知ったときは、純粋に「良かった」と思った。

五:アンディの加入を聞いたのは、「MASTER〜」が出るどのくらい前ですか?

三:えーとね、どうだったかな。

五:94年になってすぐにキスクが脱退して、その年の8月に「MASTER〜」が発売になったということは、すぐに後任が決まったということですよね?

三:そうだよね、バンドとしては準備はしていたんだと思う。

五:アンディが入って、アルバムが完成して音が届いて、最初に聴いてどう思いましたか?

三:うん、明らかに「KEEPER OF THE SEVEN KEYS」(2作目/97、3作目/98年作品)の頃とはサウンドも違うんだけれど、すごく良い曲もあるし、アルバムとしても良い作品だなと。「これは売れるだろうな」と思った。

五:では前作「CHAMELEON」よりも充実した作品だと。

三:そうだね。当時はEUROPEがビクターから離れていた時期で、HELLOWEENがビクターのHR/HMの中では一番大きなアーティストだったから、「これはちゃんとやらにゃ」と思って随分聴き込んだよ。

五:なるほど。

三:このとき、「シングルは“Mr. Ego”だ」と海外から言われたんだけど、僕の中では“Where The Rain Grows”しかなかった。それで、「日本はこの曲でやりたい」って海外を説得して、ファースト・シングルを変えたんだ。で、費用をいくらか負担して“Where The Rain Grows”のビデオも制作してもらった。ただ、アートワークがきて「アラッ」ってなったけどね(笑)。

五:でも今やこのアートワークも“クラシック”になって、ファン全員が名盤のジャケ写だという印象を持っていますけどね。

三:そうかもしれないけど、届いたときは「え? コレか…」って思ったんだよね(笑)。ロゴの世界観と、ジャケットの世界観が合っていない気がして。

五:まあ、漢字も入ってますからね(笑)。とにかく、さっき「これは売れると思った」とおっしゃっていましたが、実際にこのアルバムが初めて日本でのセールスが10万枚を超えた彼らの作品になりました。

三:このときちょうどマーケットも良かったんだ。洋楽全般が売れていて、メタルも良く売れた。ジャーマン・メタル、特にHELLOWEENは、僕を含め扱っている関係者はもちろん売れていることが分かっていたんだけど、周りからするとあまり売れているとは思われていなかったところが、面白かったね。

五:それは他のジャンルの業界関係者たちからすると、ということですか?

三:いやいや、同じメタルを扱っているレコード会社の人たちからしても、という意味。

五:えー、それは意外ですね。

三:ようするに、世界的な大物メタル・バンドのほうが売れるだろう、と思われていたんだよ。だけど実際はHELLOWEENのほうが売れている、と。

五:なるほど。

三:これは、ある雑誌編集者の方の分析なんだけど、世界的な大物バンドはウンチクが 色々あって歴史を語らなくちゃならない。一方、HELLOWEENは歴史を語る必要がなく、敷居が低い。「これ一緒に歌えるよね」といってファンになってくれる。「HELLOWEENっていつも楽しそうだし」ってね。“カボチャ”っていう分かりやすいアイコンがあって、何か楽しそうで、音も分かりやすくて、ハードルが低い。アンディが入ってから、さらにバンドに対するハードルが下がったんだよね。よりファンになりやすくなったんだよ。

五:PC69から入ってきてくれるファンもいたでしょうしね。

三:そうだね。ただ、プレス写真は酷かったけどね(苦笑)。植木の横に寝転がったりして、「何なんだよ、コレ」みたいな(笑) 当時は結構、初回盤にフォト・ブックレットを封入することが多くてね。まあ、あんまりカッコよくなかったかもしれないけど(笑)。

五:ははは(笑) でもその「MASTER〜」が10万枚を超えたわけですよね。ビクターのHR/HMアーティストでゴールドディスクを獲得したのは、HELLOWEENが初めてだったのですか?

三:いや、EUROPEだね。「OUT OF THIS WORLD」が15万枚くらいいってたんじゃないかな。「THE FINAL COUNTDOWN」も売れてたと思うけど、当時はまだ僕もビクターに入っていなかったし、アナログの時代だったからよく分からないな。

五:バンドにとっても三代目さんにとっても、初のゴールドディスクですよね?

三:もちろん。

五:バンドは喜んだでしょうね。

三:すごく喜んでたね。

五:そりゃそうですよね。ところで、「MASTER〜」からは、アンディと一緒にウリ(・カッシュ/ds)も入りましたよね。

三:うん。ウリのことはGAMMA RAYにいたからもちろん知っていてね。彼は「かわいい」とされていて、アンディは「かっこいい」とされていたから、音の良さはもちろん、「見栄え良くなったよね」って。

五:ということは、女性ファンが増えた。

三:そうだね、うん。結局この時代って、LAメタルがガーッて盛り上がって、普段メタルを聴かないような人たちも聴いてたんだよね。

五:でもLAメタル全盛期は、この時期より少々前ですよね?

三:だけど、その余韻が残っていたの。

五:なるほど。

三:LAメタルでメタルの間口がとても広がって、その余韻が残ってたんだ。それでメタル がわりと売りやすい時代だったんだよね。

五:その時代背景もプラスに働いてか、「MASTER〜」は前作「CHAMELEON」の倍近いセールスを記録してます。社内的にも、「HELLOWEENって凄いじゃん!」って話になりますよね。

三:この頃って、「HR/HMは売れるからちゃんとやろうよ」という雰囲気があって。『ピュア・メタル・クラブ』っていう年会費制の組織をビクターが立ち上げて、毎月手作りの新聞みたいなものを発行していたりしたんだ。あと、『ピュア・メタル・セミナー』と銘打って、注目のアーティストのリリースがあったりすると、メンバーを呼んで日本各地でイベントを催してたんだ。札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡…全国7カ所で開催してた。必ず各地に受け皿となってくれる番組があって、番組告知や購入者特典でファンを集めてね。東京は300人くらいの規模でやってたんじゃなかったけな。

五:300人!? ちなみにそのイベントは、会費制の『ピュア・メタル・クラブ』に入ってさえいれば無料ですか?

三:うん、それは紐づけてなかったと思う。だからイベント参加は完全無料だね。

五:じゃあ、抽選で選ばれた人は参加できる、と。

三:そう。

五:メンバーを日本に呼んで実施していたということは、初めてアンディに会ったのは、その『ピュア・メタル・セミナー』のときですよね。彼の第一印象はどうでしたか?

三:とてもソフトで、良い人だったよ。すごく他人に気を使う人でね。それから、当時からアンディとヴァイキーはとても仲が良くて。だから、『ピュア・メタル・セミナー』の全国行脚も、2人して何事もなく順調にこなしてくれたよ。

五:その後、「MASTER〜」を引っ提げての来日公演があったのですね。アンディにとってはHELLOWEENのシンガーとしては初めて日本のファンの前で歌ったわけですが、ファンの反応はどうでしたか?

三:アルバムの内容が良かったから、すごく好意的に受け止められていたよ。

五:当然キスク時代の曲も歌ったのかと思いますが、それに対しても?

三:うん、特に否定的な感想は聞かなかったなあ。

五:そのツアーでの印象的な思い出はありますか?

三:うーんとね……。あんまりホテルから出歩かなったんだよ、アンディもヴァイキーも。まあ、キスク時代からそうだったけど。それまで担当していたGAMMA RAYとかは夜遊びが酷かったの、ホントに(苦笑)。ただ、プロモーション来日のときは、アンディとヴァイキーが深夜にホテルのロビーでコーヒー飲みながらずっと話してる、なんてこともあったかな。

五:確かに2人ともコーヒー好きですよね(笑)。

三:どちらも酒飲まないからね、ほどほどにしか。アンディはビール飲まないし。確か「ガキの頃ビールの樽に落っこちてからビールが嫌いになった」とか言ってたな。

五:それは面白いエピソードで(笑)。まあ、その後まったく同じラインナップで、「THE TIME OF THE OATH」(7作目/96年発表)というこれまた傑作が出てくるという。

三:うん。

五:これも「MASTER〜」同様、手元に音が届いてから三代目さんが最初に聴いたのですよね?

三:『BURRN!』誌の広瀬編集長と一緒に、彼らがレコーディングしているスタジオまで行ってね。そのとき初めて聴かせてもらったんだよ、“Steel Tormenter”とか。当時HELLOWEENはSanctuaryとIRON MAIDENと同じマネジメント契約していて、ひょんなことからハンブルクにあるレコーディング・スタジオに行く前に、ウォルヴァーハンプトンであるIRON MAIDENのブレイズ・ベイリーお披露目ライヴも観ることになってね。会場までSanctuaryのスタッフが運転する車で、ロッド・スモールウッド(Sanctuaryの創設者にしてIRON MAIDENのマネージャー)やジョージ・チン(カメラマン)、広瀬氏と一緒に。車内では、完成したばかりのSKINの新作が爆音でかかっているという不思議なシチュエーションだったなあ(笑)。

五:SKINも同じSanctuaryだったのですね。

三:そう。で、そのあとハンブルクの『Chateau du Pape』ってスタジオに行って、とり あえず何曲か聴かせてもらうわけ。“Steel Tormenter”は、「お〜、エンジンの音から始まるのか〜。今までとちょっと違うな〜」と思った記憶がある。とにかく凄いアルバムだと思ったよ。そんな様子を見ていたロッドも満足そうで。

五:ロッドもイギリスからドイツまで付いてきたんですか?

三:HELLOWEENは海外でも大きくなっていたからね、「MASTER〜」も成功があって。それから、余程のマイナス要素がない限り、当時は「次のアルバムはもっと売れて当たり前」という時代だったから。

五:いい時代ですね(苦笑)。

三:だから、次でセールスが下がるとか有り得なかったんだ。同じラインナップだったら次はもっと売れるに決まってる、という感覚だね。

五:それにしても、「MASTER〜」が10万枚で、次の「THE TIME〜」が20万枚を超えたっていうのは…

三:うん、確か「THE TIME〜」は、初回出荷で12万枚とかいってたと思うんだ。

五:初回出荷で12万ですか!?

三:いい時代だね(笑)。

五:では、「THE TIME〜」がこれだけ売れた要因はどこにあったと分析しますか?

三:それはね、“Power”っていう曲が強烈だったんだと思うよ。

五:それに尽きる、と。

三:そう。やっぱり“Power”でしょ。あの分かりやすさ、あの楽曲の良さ。良く出来た曲だったよね。極論言ってしまえば、アルバムがどうこうというより、あの1曲あればこそっていうのは実際あったと思うよ。リード曲があれじゃなかったら、結果は違ったんじゃないかな。もちろんアルバム全体も良かったけどね。

五:当時HR/HMにかかわらずロックがかからない普通のラジオ番組とかでも、HELLOWEENの曲は流れたりしていたのですか?

三:それはないな。そこまではやらなかった。

五:じゃあ、当時「これは功を奏した」というプロモーションはありましたか?

三:詳しくは覚えてないんだけど、テレビでHELLOWEEN特番をやったんだよね。

五:地上波ですか?

三:うん。当時はよく30分の枠を買って、番組を制作して放送してたの。雑誌やラジオでもその告知をしてね。まあ、前作10万枚売ってたから、「今作は多少予算使ってもいいからもっと売れ」ということになったんだけど、そんなに使うところないんだよね、実際。プラスαでいつもと違うことやったといったら、ラジオやテレビで特番組んだりしたくらい。もちろんテレビは深夜だけどね。テレビ東京じゃなかったかなあ。

五:地方は?

三:東京だけ。いや、名古屋・大阪もやったかな。よく覚えてないけど。

五:なるほど。

三:で、ちょうどその当時、SanctuaryがIRON MAIDENとHELLOWEENをカップリングにして、世界各国を随分グルグル回してたのよ。『Midtfyns Festival』っていうデンマークのオーデンセで2日間くらい開催されるロック・フェスに、その2バンドも出てて、伊藤政則氏にご一緒して頂いて、そこに取材に行ったなあ。ヘッドライナーはZZ TOP、みたいな。

五:なるほど、そういうフェスですが。

三:日本はというと、ウドーさんが大規模なツアーを組んだわけ。

五:10都市13公演。

三:そう。その中に、神奈川県民ホール公演があってね。当時は、日本武道館を観客でいっぱいに出来るバンドが、神奈川県民ホールもソールドアウトに出来る、という感覚だったんだ。キャパシティは県民ホールの方が少ないけど、武道館は東京都内だからね。そして、「是非とも県民ホールをいっぱいにしたい」ということで、ウドーさんと協力して、tvk『ROCK CITY』でガンガン告知してもらって、視聴者をHELLOWEENのヨーロッパ公演に招待しようということになってね。当選者の学生さんを連れて、番組ディレクターさんと3人でスペインまで行ったんだ。そういった企画の告知も絡めて、県民ホール公演を宣伝してもらったんだよ。

五:それで結果は?

三:いっぱいになったよ、県民ホール。ということは、そのときのツアーの東京公演はベ イNKホールだったんだけど、もし武道館でやっていてもソールドアウトになったんじゃないかな。武道館よりも少し小さいNKホールは当然パンパンだったわけだし。やっていれば絶対埋まっていたね。

五:それは惜しいことをしましたね。では、そのツアーで印象深い出来事はありましたか?

三:10都市だから、秋田とか新潟もやったんだ。ちゃんとソールドアウトになったんだけどね。新潟は、ニューオータニとかオークラみたいなホテルがあるんだけど、秋田はそういったホテルがなくて、秋田のホテルの部屋にいたらメンバーの誰かから、「フロントに英語が通じないから助けてくれ」って内線がかかってきて(笑)。

五:まあ、土地柄、外国人の観光客がそんなに来るところじゃなかったんですね。

三:それから、『ROCK CITY』の視聴者をスペインに連れていく前くらいから、僕が体調を崩してね。ホントに血を吐きながら旅行してたの。日本に帰って来てからも善くならなくて、ずっと精神安定剤を飲みながらツアーに同行してたのね。その薬をメンバーに見つかって、全部とられた(笑)。

五:どうしてですか!?

三:「俺たちも眠れないから薬くれ」って(笑)。

五:なるほど、そういうことですか。

三:酒飲んでガーッと寝るってタイプの人でもなかったしね。時差ぼけもあってなかなか寝付けなかったみたい。

五:まあ、そういった大変な目に遭いはしたものの、ツアーは大成功で終えるという。

三:ただね、アンディの体調不良で福岡公演をキャンセルしたのは、このツアーだったと思うんだよね。

五:そんなことがあったのですね。

三:うん。そういえば、この「THE TIME〜」のときは、全国7カ所でやってた『ピュア・メタル・セミナー』の大阪開催に、500人もファンが集まってくれたんだ。

五:500人ですか!? 今や、普通のライヴでも大阪で500人集めるのは結構大変だったりしますよ。

三:そうだねえ。

五:当時はHELLOWEENだけじゃなく、ジャーマン・メタル・シーン全体が盛り上がっていたのですよね?

三:GAMMA RAYの「INSANITY AND GENIUS」も10万枚いってたし、BLIND GUARDIANは音楽性がちょっと難しかったりアルバムからアルバムまで時間が空いたりしてたけど、それでも10万枚近くいってたしね。

五:HEAVEN’S GATEもいましたよね?

三:HEAVEN’S GATEも5万枚くらいは売れたんじゃないかなあ。

五:「LIVIN’ IN HYSTERIA」ですね。

三:うん。そこそこのバンドであれば、まずまず売れた時代だね。まさしくジャーマン・ メタル・バブルって感じで。

五:そして、そのバブルの追い風を受けての、「BETTER THAN RAW」(8作目/98年発表)リリースですね。このアルバムを初めて聴いたときの感想は?

三:“I Can”のギターが、BUCK-TICKみたいだなと思った(笑)。邦楽ロックっぽいな、と。「まあ、これはこれでカッコいいな。でも、いつもとちょっと違うぞ」と思った。

五:それは“I Can”だけが? それともアルバム全体が?

三:全体だね。“Push”みたいな、ちょっとスラッシュ・メタルのような曲もあったし。最初は「なんだコレは!?」と面食らったけど、ちゃんと聴いてみると良いアルバムだった。“Hey Lord!”も良かったし、ラテン語の“Laudate Dominum”みたいに一風変わった曲もあったし。結構楽しいアルバムだった。

五:アートワークも様変わりしましたものね。

三:評判良かったんだよね、アレ。インパクトもあって。で、毎回プレス写真があまり良くなかったからマネジメントに「日本主導で写真を撮れないか?」とお願いしたら、「そんなに言うなら」って折れてくれて。マネジメントとの協議の結果、メンバーを超美男子にするわけにもいかないから、「腕のいいカメラマンを用意するしかない」ということになって、上手いカメラマンにお願いして、テネリフェのスタジオでトラックダウン作業か何かをやっているときに撮影したわけ。テネリフェって小さい島なんだけど高低差があって、上に登っていくと岩山だらけの場所とかあってね。SF映画の撮影にも使われてる島らしく。最初は海のそばで撮って、次に山を登っていって、国立公園の岩肌をバックに撮影したんだ。でも許可とってなかったから警備員に怒られて(苦笑)。一旦は大人しく止めるんだけど、しばらくしてら再開して、ロッド・スモールウッドと僕で小高いところに立って警備員が来ないか見張りして(苦笑)。トータル12時間くらい撮影してたね。

五:アンディだけではなく、ヴァイキーもそのときすでにテネリフェに住んでたんですか?

三:ヴァイキーはテネリフェでアパートを借りてた。アンディは自宅があって、その地下がスタジオになっててね。それからね、「PUMPKIN BOX」(98年発表)っていう初期音源を集めた日本独自企画ボックスセットのCDに入れるインタビュー音声を録って歩いたのは、この出張のときだ。テネリフェでヴァイキーとローランドのインタビューを録って、帰りにハンブルクでキスクの分も録ったんだ。カイ(・ハンセン/g)は、彼が東京に来たときに録ったんだっけな。

五:よく昔のメンバーも協力してくれましたね。

三:マネジメントにどう説明したかはよく覚えていないんだけど、「『BETTER〜』リリースの前煽り」とかテキトーなこと言ったんじゃないかな(笑)。それで、「曲が足りないからインタビュー音声録って入れるから」って。

五:じゃあ、「PUMPKIN BOX」が98年1月1日元日リリースですから、その直後に「BETTER〜」が出て、という流れですね。

三:そういうことだね。

五:そして、その翌99年には、カヴァー・アルバムの「METAL JUKEBOX」が発売されるわけです。このアルバムでも先行シングルを出しているのですが、カヴァー・アルバムで普通は先行シングル出さないですよね(笑)。

三:出したね、ABBAの「LAY ALL YOUR LOVE ON ME」のカヴァーで。

五:これは日本だけで出したシングルだったんですか?

三:海外でも出てたと思うよ。

五:なるほど。そのシングルを受けて、「METAL JUKEBOX」が出ると。このカヴァー・アルバムは、結構本腰を入れて「売ろう!」というスタンスの作品だったのですか?

三:いや、バンドとしては、そこまでガツガツの本気の作品というわけじゃなかったな。

五:そして「THE DARK RIDE」(9作目/00年発表)ですね。この作品は、それまでのHELLOWEENとはまた違うサウンドでしたね。

三:そうだね、ちょっとゴシック入った曲があったり。

五:アートワークやタイトルも含めですね。それら要素を伴ったアルバムは、売りづらかったりしました?

三:いやー、日本ではそうでもなかったよ。

五:“Mr. Torture”とか良い曲ありましたものね。

三:うん、確かその曲はウリが作ったんじゃないかな。

五:そうです、ウリです。では、彼はこの“Mr. Torture”というシングル曲を残して、ローランドとともにバンドを去るということですね。

三:そうだね。

五:先程お話ししたとおり、「THE DARK RIDE」は所謂HELLOWEEN像から少し外れたダークなイメージも相俟って、ややファンから敬遠されたアルバムだったかと思いますが、三代目さん的にはどうでしたか?

三:アルバムとしては好きだね。HELLOWEENの作品って、「良い曲多いけど、ちょっと乱雑だな」という部分もあったんだけど、この「THE DARK RIDE」は全体的にまとまりがあったな、と。

五:なるほど。

三:そういえば、「THE DARK RIDE」が出た後、伊藤政則さんのラジオ特番があって、ちょうどそのときヴァイキーがロンドンに滞在しているっていうんで、僕が現地に行って、放送中にロンドンと日本で生電話つないだりしてね。そのときずっとヴァイキーと一緒に居たんだけど、彼に「『THE DARK RIDE』は、俺のせいでああなったんじゃない」って語られたのを覚えてる。

五:それは「THE DARK RIDE」が海外で不評だったということですか?

三:うん、ヨーロッパではあんまりだったと思う。

五:ヨーロッパのほうが、ゴシックなサウンドの受け皿があるはずなんですけどね。

三:まあ、「HELLOWEENがそれをやらなくても」ってことだったんだよね、きっと。日本では売れたし、良いアルバムなんだけどね。

五:話は逸れますが、「THE DARK RIDE」が出た2000年10月20日近辺で、アンディがプロモーションで来日していますよね。その同じとき、ちょうどIRON MAIDENもツアーで来日していて、会場の楽屋でIRON MAIDENのメンバーをアンディと三代目さんが表敬訪問されてますよね?

三:あー、確かそうだったねえ。国際フォーラムだったかな。

五:実はそのとき高校生だった僕は、bayfm『POWER ROCK TODAY』のIRON MAIDENバックステージ招待に当選して、その様子を見ていたんです(笑)。「あっ、アンディ・デリスじゃん!」って(笑)。

三:えっ、そうなんだ!

五:だから10数年前、アンディと三代目さんにニアミスしていたという…(笑)。

三:ははは(笑)

五:話を本線に戻しますが、「THE DARK RIDE」のジャパン・ツアーを終え、ウリとローランドが脱退するわけですが、三代目さんが担当した最後の作品は…

三:「TREASURE CHEST」、ベスト盤だね。

五:あっという間に3枚組エディションがなくなりましたよね。当時、僕も買おうとしたのですが買えませんでした。

三:2枚組は国内生産したけど、あの3枚組は輸入したものに帯つけて出したんじゃなかったっけな。国内盤作る時間がなかったとかで。2002年1月末にこのベストのことを知らされて、3月にリリースしてるからね。

五:いつの時代も海外からのリリース情報伝達って遅いんですね(苦笑)。

三:うんうん(苦笑)

五:三代目さんは、担当ディレクターとして「MASTER OF THE RINGS」、「THE TIME OF THE OATH」、「BETTER THAN RAW」、そして「THE DARK RIDE」というアンディ加入後の4枚のオリジナル・アルバムに携わったわけですが、その中で一番好きなアルバム、そして曲はどれですか?

三:うーん、曲はやっぱり“Power”だなあ。アルバム全体でみると「THE DARK RIDE」だね。

五:では、三代目さんが担当している間、一番嬉しかったことは何ですか?

三:まあ、「売れた」ってことかなあ。「THE TIME〜」か「BETTER〜」のジャパン・ツアーのときにシルバー製のカボチャのアクセサリーを貰ったんだ。「メンバーと、限られた人のためにしか作ってないんだ」って言われて。未だにちゃんと自宅にとってあるよ。あれは嬉しかったな。

五:逆に一番苦労したことは?

三:ヴァイキーだな(笑)。ヴァイキーの扱い方(笑)。でも、誤解がないように言っとくけど、とてもいい人なんだよ。

五:(苦笑)。じゃあ、三代目さんが担当していた頃のバンドと、今のHELLOWEENとで変わった点はありますか?

三:ライヴが良くなったよ、圧倒的に。色々な意味で、メタル・バンド然としてタイトになった。

五:なるほど。ところで、最新作「STRAIGHT OUT OF HELL」を聴かれてみて、いかがですか? 僕個人は、『21世紀のハロウィン、最高傑作』というキャッチコピーをつけてしま ったくらい良いアルバムだと思ったのですが。

三:とてもいい、安心して聴けたし。4、5、6曲目とか良い曲が並んでいるしね。秀逸な流れだと思うよ。

五:ありがとうございます。その新作のブックレットにあるバンドのサンクス・リストに、ちゃんと三代目さんの名前が入っているんですよ。

三:え、未だに入れてくれてるの? 有り難いことだよね。

五:最後に。三代目さんにとってHELLOWEENとは?

三:レコード会社スタッフ人生における、一番脂の乗りきったときの「とても楽しい仕事」だよね。色々勉強させてもらったし、当時はインターネットもない時代だから、日本独自のマーケティングとかも試せたし。やってて楽しいし、面白い。やっぱりこの仕事って売れると一番楽しいじゃない? メンバーと良い人間関係も築けて、マネジメントにも信頼してもらって、「とても楽しい仕事」だったね。


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