宮城 まり子
宮城まり子BOX 唄の自叙伝
2013.01.23
アルバム / VICL-63981~5
¥11,000(税込)
Victor
《舞台デビュー65周年・ねむの木学園創立45年 特別企画》
一貫して庶民の唄を歌い、人々に愛され続ける歌手・宮城まり子の金字塔。
流行歌手としての代表曲はもちろん、ミュージカル、シャンソン、そして、
自ら作詞作曲も手がけた《ねむの木の詩》まで、多彩な歌の魅力を集大成。
#1-CD
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01
初恋の頃なれば
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02
あなた本当に凄いわね
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03
東京やんちゃ娘
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04
恋は陽気にスィングで
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05
サーカス悲しや
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06
さくらマンボ
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07
毒消しゃいらんかね
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08
メリーのパパは何処の人
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09
じゃがたらマンボ
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10
お祭りシャンソン
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11
夜汽車の窓で
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12
可愛い港の花売娘
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13
僕はバイトの大学生
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14
別れのテープ
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15
チンチロリン・サンバ
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16
東京チャップリン
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17
ロッキーの呼び声
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18
東京シンデレラ
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19
星よふたたび
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20
ジャワの焼鳥売り
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21
アラビヤ新婚旅行
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22
スチール・ギター・マンボ
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23
りんご・マンボ
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24
なやましブギ
#2-CD
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01
ガード下の靴みがき
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02
夕刊小僧
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03
納豆うりの唄
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04
ピーナツ小僧
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05
海辺のチャチャチャ
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06
てんてん娘
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07
さんさん・ソング
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08
銀座0番地
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09
東京ジャニー
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10
まりちゃんの子守唄
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11
人知れずこそ
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12
太鼓たたいて
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13
僕のシェーン
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14
わたしのパパはペット吹き
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15
奴さん
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16
おてもやん
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17
五木の子守唄
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18
どんどん節
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19
にげたおやつ
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20
へのへのもへじ
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21
手のひらを太陽に
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22
遠くへ行きたい
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23
ガード下の靴みがき(NHK紅白歌合戦より)
#3-CD
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01
十二月のあいつ
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02
母ちゃんの手
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03
ボロちゃん物語
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04
六軒長屋の歌
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05
誕生の唄
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06
夜店の花火
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07
納豆うりの唄
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08
夕刊小僧
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09
ガード下の靴みがき
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10
ジャワの焼鳥売り
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11
富士は神様
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12
てんてん娘
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13
東京やんちゃ娘
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14
さんさん・ソング
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15
ジェルソミナ
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16
毒消しゃいらんかね
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17
六軒長屋の歌
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18
銀座0番地
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19
東京シンデレラ
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20
かまくら
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21
明日にそなえん
#4-CD
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01
ジェルソミナ
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02
ドレミの唄
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03
気ままなくらし
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04
ガッチリ・ローラ
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05
トゥナイト
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06
淋しい山猫
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07
泥の中のルビーのテーマ(A)
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08
泥の中のルビーのテーマ(B)
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09
愛の讃歌
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10
そして今は
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11
ルナ・ロッサ
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12
悲しみよさようなら
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13
夜明け
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14
人の気も知らないで
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15
幸福を売る男
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16
枯葉
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17
黒いオルフェ
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18
白い想い出
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19
ジェルソミナ(2012年ライブ録音)
DISC 1 宮城まり子 ヒット曲集(1)
DISC 2 宮城まり子 ヒット曲集(2)
DISC 3 芸術祭参加~十二月のあいつ
DISC 4 まり子のミュージカル&シャンソン
DISC 5 ねむの木の詩~心から心へ
ボーナス・トラックとして、
昭和24年(1949年)幻のデビュー録音を初復刻!
平成24年(2012年)約40年ぶりのステージを収録!
さらに、昭和30年(1955年)NHK紅白歌合戦での
「ガード下の靴みがき」の熱唱も特別に収録!!
「幸せなビクターの歌手」
歌が好きだから、ねむの木学園を始める時、忘れようと思いました。
弟が死んだ時、ミュージシャンに逢ったあと、泣いてばかりいました。
だから、ねむの木学園のこどもたちに歌を教えるということに熱中しました。
CDを出しませんか?とビクターの方に言われたとき、キョトンとしました。
そして、その曲の数が100曲ときいた時、本当?と答えていました。
夢中でうたった曲、イヤと云った曲、世の中に叫ぶんだと思った曲・・・
今、私は感謝以外ありません。ありがとう。おそばにいつまでもおいてください。
宮城まり子
『宮城まり子BOX 唄の自叙伝』
このアルバムは、戦後の日本で稀有な才能で、ビクターの流行歌手から日本のミュージカル・スターへ上り詰め大活躍した、宮城まり子の200曲以上の録音から100曲あまりを厳選したものである。
宮城まり子の本名は本目真理子。1927年(昭和2年)東京・蒲田に生まれた。幼少時に大阪に移住。小学生で母を亡くし、父、弟と九州に居住。終戦後、弟と九州を巡業していたが1948年(昭和23年)上京、浅草の舞台に立った。
翌年、益田喜頓の紹介で浅草出身の劇作家・菊田一夫が浅草にやってきて日劇の出演を宮城に勧める。「ボクを信じて日劇に来て欲しい」の一言を信じて、11月、彼女はショービジネスのひのき舞台、有楽町の日劇に出演することとなった。しかも、その日劇のレビュー「有頂天時代」の主役に、暁テル子、池真理子らにまじって抜擢されたのだ。日劇の大看板に自分の名前が大きく書かれているのを見つめて、宮城は夢かと思ったという。翌50年(昭和25年)1月には「ラジオは踊る」、2月には「アメリカン・ラプソディー」、3月は「スイング・クリスタル」と毎月のように日劇の舞台で素晴らしい活躍を見せる一方、レコード歌手としては1949年(昭和24年)にテイチク、翌年はポリドールに数曲録音したもののヒットには恵まれず、1951年(昭和26年)にビクターに移籍。しかし、舞台で声を使いすぎたのか録音のチャンスはなかなかめぐってこなかった(昭和26年3月の日劇「娯楽超特急」の新聞批評で「宮城まり子の声にいつもの伸びがない」と書かれている)。
彼女がその試練を超えてビクターでレコーディングしたのは翌52年(昭和27年)のことだ。築地のビクターへ1年近くも東松原の自宅から日参していた宮城は、守衛さんとも仲がよくなったという。デビューまでの苦闘を目の当たりにし、応援してくれた守衛さんの名前を彼女は今も忘れない。
翌53年(昭和28年)には、「東京やんちゃ娘」「毒消しゃいらんかね」など彼女の明朗活発なキャラクターを活かした曲がヒットとなり人気歌手に。1955年(昭和30年)「ガード下の靴みがき」がメガヒットとなったころは、映画、ラジオ、テレビ、舞台にひっぱりだこで、しかも作家達の創作欲を刺激したのだろう、意欲作、野心作が次々と誕生。1958年(昭和33年)「十二月のあいつ」で、ついに芸術祭賞(大衆芸能部門)に輝いた。
やがて、レコード録音から遠ざかり、歌謡曲を歌うことよりも舞台女優としてのキャリアを重ねてゆくこととなる。その一方「ガード下の靴みがき」や一連の働く少年を歌ったことで全国の子どもたちに愛された宮城まり子は、恵まれない境遇にいる子、肢体不自由の子たちに熱い思いを寄せるようになった。
ついに自らの強い念願であった日本初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を設立したのは帝国劇場での「風と共に去りぬ」の出演で多忙を極めたころ、1968年(昭和43年)のことであった。以来、その存続と子供達のために、女優・歌手としての華々しい活動のすべてを捨てて、歩み続けて45年になろうとしている。
2012年(平成24年)の秋、長年の宮城まり子の福祉活動に瑞宝小綬章が授与されたが、皇居から戻った彼女をねむの木学園の子どもたちが出迎え、祝福の歌をプレゼントしていた。子どもたちに囲まれて、そのときのはにかむ宮城まり子の85歳の笑顔は世界一美しかった。彼女の持つやさしさ、人間愛が結実した「ねむの木学園」の活動に心からの賛辞を贈るとともに、宮城まり子が残した宝石のようにきらきら輝く歌の数々を、もう一度現代に甦らせることはとても意義のあることだと私は思っている。
高橋正人(ライナーノーツより)