東京に吹いた風の記憶
1965年から74年、すなわち昭和40年代は社会全体が激しく揺れ動いていた時代であり、音楽に限らず新しい文化が次々と生まれた10年と言っていいだろう。「モーレツからビューティフルへ」なんて富士ゼロックスのCMがあったが、GSからニューロックへ、メッセージ・フォークからニューミュージックへ、と音楽も進化し、人々の生き方も価値観も大きく変化した。
フーテン、サイケ、アングラ、学園闘争、風月堂、西口フォークゲリラ、深夜放送、日比谷野音、エトセトラ・・・。あの時代の東京、特に新宿はカウンター・カルチャーの拠点だった。
あの時、東京に吹いていた風。がむしゃらに熱くなっていた青春の記憶。
時代の肌触りが甦るような16の楽曲が収められた。
あなたはどこで何をしていただろうか?
- 1. 雨の中の二人/橋幸夫
- この時代の「御三家」と言えば、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦である。橋幸夫は、1960年のデビュー曲「潮来笠」、吉永小百合とのデュエット「いつでも夢を」、リズム歌謡の「恋をするなら」「恋のメキシカン・ロック」など、ビッグ・ヒットを連発していたトップ・スター。「雨の中の二人」は代表曲のひとつで、66年1月にビクターからリリースされた。同年暮れには、10月リリースの「霧氷」でレコード大賞を受賞しているが、どちらかというと「雨の中の二人」の方が当時の大衆の印象に残っているのではないだろうか。
- 2. アイビー東京/三田明
- 三田明は、60年代前半にブームとなった「青春歌謡」の代表的なスター歌手。御三家に加えて「四天王」とも呼ばれた。日本テレビのオーディション番組「ホイホイミュージックスクール」出身で、名曲「美しい十代」で63年10月にデビュー、日活の同名映画にも主演した。「アイビー東京」は66年4月にビクターからリリースされ、ファッションメーカーのVANが送り出したアイビールックのアイビー族をテーマにしたもの。
- 3. 今夜は踊ろう/荒木一郎
- 元祖シンガーソングライター荒木一郎のデビュー曲「空に星があるように」に続いてヒットしたセカンド・シングル。オールディーズ・テイストのビート歌謡で、66年10月にビクターからリリースされた。当時、レコード会社専属の作家による楽曲ではなく、歌手が自作自演でヒットを飛ばすというのは、荒木一郎以外では加山雄三くらいしかいなかった。
- 4. 世界は二人のために/佐良直美
- 「紅白歌合戦」の司会でもおなじみの佐良直美のデビュー・ヒット。67年5月にビクターからリリースされ、レコード大賞新人賞を獲得し、結婚式で使われる定番ソングにもなった。佐良はデビュー前に作曲家いずみたくに師事、ボサノバやフォーク調の作品を得意とし、69年「いいじゃないの幸せならば」でレコード大賞を獲得した。 ドラマ「肝っ玉かあさん」「ありがとう」など、女優としても活躍している。
- 5. 涙くんさよなら/和田弘とマヒナスターズ
- 54年結成の和田弘とマヒナスターズは、ハワイアンをベースにしながら日本人ならではの「ムード歌謡」というジャンルを作った偉大な老舗グループ。ビクター専属として多くのヒット曲があるが、「涙くんさよなら」は65年に坂本九をはじめとしていくつもの歌手が同時期に取り上げ競作シングルとなった。66年には映画化もされており、映画ではなんとジョニー・ティロットソンが歌っている。
- 6. ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ
- いしだあゆみは64年からビクターで23枚ものシングルをリリースした後、68年にコロムビアに移籍。「ブルー・ライト・ヨコハマ」は68年12月にリリースした移籍3枚目のシングルで、ミリオン・セラーの特大ヒットを記録した。筒美京平が70年代に作り上げたポップス調歌謡曲の幕開けを飾るに相応しい作品といえる。橋本淳の歌詞も秀逸で、当時の横浜はまだ米軍基地があり、東京よりも洒落た異国情緒の町という印象だった。
- 7. 伊勢佐木町ブルース/青江三奈
- こちらも横浜の繁華街を歌った青江三奈の7枚目のシングル。68年1月にビクターからリリースされ、イントロのため息を子供たちが真似するほどの国民的ヒットとなった。青江三奈は元々、銀巴里などでシャンソンやジャズを歌っていたクラブ歌手で、作詞家川内康範の小説「恍惚」の主人公をモデルにした歌手として66年に「恍惚のブルース」でデビューした。
- 8. 男と女のお話/日吉ミミ
- それまでになかった雰囲気の歌詞、そしてワン&オンリーとでもいえる歌唱が一度聴いたら忘れられない稀代の名曲。当時流行った絨毯バーで弾き語りをやっている歌手が、失恋で悲しんでいるお客の女の子を慰めているというシーンを想像していただきたい。日吉ミミは69年に「おじさまとデート」でビクターよりデビュー、2枚目となる70年6月リリースのこの曲のヒットで一躍スター歌手となった。寺山修司も日吉ミミを気に入り楽曲提供やリサイタルの構成をしている。
- 9. アン真理子/悲しみは駆け足でやってくる
- アン真理子としてはデビュー曲となるフォーク調のヒット曲で69年7月にビクターからリリースされた。これ以前、67年に出門ヒデ(後にヒデとロザンナを結成)とボサノバ・デュオ、ユキとヒデとしてデビュー。同時期に藤ユキ名義の歌手としてお色気路線のシングルもリリースしていた。突如、髪を切りアン真理子として生まれ変わりリリースしたのが自ら作詞したこの曲であった。その後も作詞家としても活動していた。
- 10. さらば恋人/堺正章
- 近年、欧米でもCDがリリースされるなど最も音楽性の高いGSとして評価されているザ・スパイダース。マチャアキこと堺正章はザ・スパイダースの看板ボーカリストで、俳優やタレントとしても成功を収めているが、グループ解散直後に放った大ヒットがこの曲。71年5月にコロムビアからリリースされた。翌年に全米でヒットしたアルバート・ハモンドの「カルフォルニアの青い空」はこの曲のパクリだという噂があった。
- 11. お世話になりました/井上順
- ツイン・ボーカルだったザ・スパイダースのもう一人のスターが井上順である。グループ解散後もお茶の間で絶妙なコンビネーションを見せていた相方のマチャアキと同様に、筒美京平作品で大ヒット。71年9月にフィリップスからリリースされた。この時期の芸名は井上順之(じゅんじ)。「夜のヒットスタジオ」の名司会ぶりも忘れられない。
- 12. 夜明けのスキャット 由紀さおり
- 元々は、TBSラジオの深夜番組「夜のバラード」(DJは吉田日出子)のテーマとして、歌手の安田章子がスキャットを入れたワンコーラスだけの曲であった。放送したとたんに非常に大きな反響があったため、急遽短い歌詞をつけレコード化することになり、安田章子から由紀さおりと改名し再デビュー。69年3月に東芝よりリリースされ大ヒットした。
- 13. 変身/池玲子
- 歌謡史に残る名曲が続く中、聴き慣れない曲だと思う方もいらっしゃるだろうが、この人のことは知っていると思う。池玲子はモデルを経て、東映ポルノ映画の看板女優として10代の頃から活躍、女番長シリーズや猪鹿お蝶シリーズなどで人気を博した。「変身」は72年7月にビクターからリリースされたシングル。池玲子自身は歌手に本腰を入れたいと宣言したこともあり『恍惚の世界』というアルバムまで出している。
- 14. 新宿カルメン/杉本美樹
- 池玲子とともに70年代前半の東映ポルノ映画を背負った看板女優であり、男性誌のグラビアでも人気だったのが杉本美樹。同じ10代でも大人びた色気の池に比べ、杉本は美しい顔と肢体でバイオレンスな演技を見せる女優だった。映画「女番長ゲリラ」をはじめとするスケ番シリーズがヒット。「新宿カルメン」は72年11月にビクターからリリースされた「女番長流れ者」のB面曲である。
- 15. また逢う日まで/尾崎紀世彦
- ザ・ワンダースを経てソロ歌手になった尾崎紀世彦の2枚目のシングルで71年3月にフィリップスからリリースされた。同年のレコード大賞、歌謡大賞と受賞し、ミリオン・セラーとなった。R&B系のGSであるズー・ニー・ヴーが70年にリリースした曲「ひとりの悲しみ」を尾崎が気に入り、阿久悠が歌詞を変えたところ大ヒットした。筒美京平お得意のグルーヴ歌謡の最高峰。
- 16. そっとおやすみ/布施明
- 元々は作者であるクニ河内が在籍していたグループ、ザ・ハプニングス・フォーのステージ・レパートリーでボーカルはベースのぺぺ吉弘が担当していた曲であった。同じ事務所だった布施明が吹き込み70年7月にキングからリリースしたところ、じわじわとロングセラーを記録し結果的に大ヒットとなる。スナックやバーの閉店時間のテーマ・ソングとしても各地で聴かれた。
■■■ サミー前田 ■■■