ライナーノーツ

東京に吹いた風の記憶

1965年から74年、すなわち昭和40年代は社会全体が激しく揺れ動いていた時代であり、音楽に限らず新しい文化が次々と生まれた10年と言っていいだろう。「モーレツからビューティフルへ」なんて富士ゼロックスのCMがあったが、GSからニューロックへ、メッセージ・フォークからニューミュージックへ、と音楽も進化し、人々の生き方も価値観も大きく変化した。
フーテン、サイケ、アングラ、学園闘争、風月堂、西口フォークゲリラ、深夜放送、日比谷野音、エトセトラ・・・。あの時代の東京、特に新宿はカウンター・カルチャーの拠点だった。
あの時、東京に吹いていた風。がむしゃらに熱くなっていた青春の記憶。
時代の肌触りが甦るような16プラス1の楽曲が収められた。
あなたはどこで何をしていただろうか? 

 
1. いとしのマックス/荒木一郎
荒木一郎の6枚目のシングル。マグマックス5をバック・バンドにつけ、ダンサブルなビート・ナンバーに仕上がっている。ジャケットには「マックス・ア・ゴーゴー」というサブタイトルがついていた。67年5月にビクターからリリースされ大ヒットした。前年にラジオ「星に唄おう」で発表した「空に星があるように」をはじめ、この頃の荒木はヒットを連発。「自作自演歌手」と呼ばれ、シンガーソングライターの先駆となった。
2. あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)/橋 幸夫
64年の「恋をするなら」を皮切りに60年代中頃の橋幸夫は、サーフィン、ホットロッド、アメリアッチといったニューリズムをフィーチャーした「リズム歌謡もの」を発表していた。65年6月にビクターからリリースされた「あの娘と僕」はニューリズム「スイム」を取り入れたもの。他にも「恋のメキシカン・ロック」「ゼッケンNo.1スタートだ」など、リズム歌謡時代の音源は非常に評価が高く、大滝詠一の企画によるCDもリリースされている。
3. 君だけに愛を/ザ・タイガース
ザ・タイガースこそが60年代後半最大のスター・グループであり、社会現象を巻き起こしたGSブームのトップに君臨していた。この3枚目のシングルは、ボーカルのジュリーこと沢田研二の魅力が全開ともいえる鮮烈なロック・ナンバーで大ヒット。沢田が客席の方々を指差すアクションが有名となり、テレビの前でもファンは釘付けだった。68年1月にポリドールからリリースされた。
4. 青空のある限り/ザ・ワイルド・ワンズ
デビュー曲「想い出の渚」でも知られるザ・ワイルド・ワンズはGSの代表グループのひとつだが、髪は短く、学生バンドの延長のような健全で爽やかなムードがあった。名付け親は加山雄三だ。この4枚目のシングルは、ドラムを叩きながら歌う植田芳暁の姿が印象的で、リーダーの加瀬邦彦が12弦ギターにファズを使用するというロック史的にも画期的なイントロとなった。67年9月に東芝よりリリースされた。
5. トンネル天国/ザ・ダイナマイツ
東京杉並の不良少年たちが結成したザ・ダイナマイツのデビュー曲で、67年11月にビクターからリリースされた。関東近郊の米軍基地をまわり米兵相手のステージで鍛えた実力派GSとして、当時から玄人筋には非常に評価が高く、現代では欧米にもファンが多いグループ。70年以降、ボーカルの瀬川洋はソロになり、ギターの山口冨士夫は京都に渡り村八分を結成、どちらもロック史に残る名盤アルバムを発表している。
6. ダンシング・セブンティーン/オックス
68年に大阪から出現し、瞬く間に人気GSとなったオックス。ボーカルの野口ヒデトとオルガンの赤松愛という2枚看板を擁し、楽器を壊したりステージから転げ落ちたりというハチャメチャなパフォーマンスが話題となった。失神するファンが続出するなど、社会問題として扱われるほどであった。「ダンシング・セブンティーン」は68年9月にビクターからリリースされた2枚目のシングルで、初期筒美京平の傑作のひとつ。この頃の流行であったR&Bの要素を取り入れている。
7. 天使の誘惑/黛ジュン
GSブームのまっただ中、女性歌手もGS調の作品が多くなり、美空ひばりもブルー・コメッツをバックに「真赤な太陽」を発表している。黛ジュンはミニスカートが似合う当時の代表的なビート・ガール歌手で、「恋のハレルヤ」で67年にデビュー。「天使の誘惑」は「ハワイアン・ロック」とキャッチコピーが付いた4枚目のシングルで68年5月に東芝よりリリースされ大ヒット、同年のレコード大賞を受賞している。
8. 真冬の帰り道/ザ・ランチャーズ
加山雄三が64年にいとこの喜多島瑛と修兄弟ほかの高校生を集めて結成した「ランチャーズJr.」が母体で、当初は加山のバックバンドとしてレコーディングにも参加していた。「真冬の帰り道」は独立した形でのデビュー曲で67年11月に東芝よりリリースされた。音楽的なリーダーで熱心なビートルズ・サウンドの研究者でもあった喜多島修は、内藤洋子との結婚後、活動の拠点をアメリカに移し全米デビューも果たしている。
9. ケメ子の唄/ザ・ジャイアンツ
「帰って来たヨッパライ」の大ヒットでアングラ・ソングと呼ばれる曲がブームとなり、「ケメ子の唄」も、関西の学生たちの間で歌われている作者不詳のアングラ作品というふれこみだった。これはザ・ジャイアンツのデビュー・シングルで68年1月にビクターからリリース。ザ・ダーツとの競作となったがヒットしたのはダーツ盤の方であった。当時ちょっとした「ケメ子ブーム」となり、「私がケメ子よ」や「ケメ子がなんだい」というアンサー・ソングまで登場した。
10. 帰り道は遠かった/チコとビーグルス
チコとビーグルスは女性ボーカル+男性のエレキ・バンドという当時のGSとしては珍しい形態だが、どちらかというとピンキーとキラーズのような歌謡グループと思われていた。「帰り道は遠かった」は68年1月にビクターからリリースされたデビュー曲で、彼等唯一のヒット。ジェノバとの競作だった。3枚目のシングル「新宿マドモアゼル」が21世紀に渚ようこにカバーされ有名になった。
11. 朝まで待てない/ザ・モップス
ヒッピー・ルックで登場し、和製サイケデリック・ミュージックを標榜した異色GSのデビュー曲。67年11月にビクターからリリースされ話題をさらった。作詞家阿久悠の出世作でもある。その後ブルースにアレンジした「月光仮面」がヒットするが74年に解散、ボーカルの鈴木ヒロミツは俳優になり、ギターの星勝は井上陽水などの編曲家として成功した。
12. ひとりの悲しみ/ズー・ニー・ヴー
68年にR&Bのカバー・アルバムでデビュー、「白いサンゴ礁」のヒット曲でも知られる実力派GSの4枚目のシングルで、70年2月にコロムビアからリリースされた。この「ひとりの悲しみ」はヒットしなかったが、翌年、阿久悠が歌詞を変えて、尾崎紀世彦が「また逢う日まで」としてリリースしたところ大ヒットした。ズー・ニー・ヴーのボーカルは後にソロになる町田義人。
13. 愛情砂漠/安田南
dankaiパンチでも特集記事が組まれた伝説のジャズ・シンガー、安田南のシングル曲。73年10月にビクターからリリースされた「アイアンサイド」(アメリカのテレビ映画主題歌の日本語盤)のB面に収録された曲で、73年10月にビクターからリリースされた。「愛情砂漠」は藤田敏八監督の映画「赤い鳥逃げた?」の挿入歌として使われ、サントラでは主演の原田芳雄も歌っている。作曲の樋口康雄はステージ101のピコの愛称でおなじみだった人。
14. グッド・ナイト・ベイビー/ザ・キング・トーンズ
50年代後半からナイト・クラブや米軍キャンプで活動していた内田正人率いるザ・キング・トーンズは、日本のドゥーワップ・グループの元祖であり最高峰である。68年5月にポリドールからリリースされたこのデビュー曲は、GSブームのまっただ中にもかかわらず大ヒット。全米でも英語版がリリースされR&Bチャートに入ったという。
15. ゴロワーズを吸ったことがあるかい/かまやつひろし
「ムッシュかまやつ」ことかまやつひろし。ザ・スパイダース時代をのぞいて最もヒットした曲が、75年2月に東芝からリリースされた「我が良き友よ」(吉田拓郎作)である。そのシングルB面がこの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」であり、録音時に来日していたタワー・オブ・パワーとのセッションから生まれた曲。A面とは対照的にムッシュの本質を表した作品として、そのグルーヴ感覚が90年代になり高く評価された。
16. グッド・バイ・マイ・ラブ/アン・ルイス
アン・ルイスは56年に神戸で生まれ横浜で育つ。日本人の母とアメリカ人の父を持ち、子役やモデルを経てアイドル歌手として71年にレコード・デビューした。「グッド・バイ・マイ・ラブ」はアイドル時代に放った最大のヒットでロッカ・バラッドの名曲。74年4月にビクターからリリースされた。
17. おそい夏/麻田奈美(ボーナストラック)
麻田奈美とは、このdankaiパンチのCDシリーズ3作のジャケットのモデルである。73年1月に平凡パンチのグラビアを飾って以来、我々のハートを鷲掴みにした美少女。特に林檎を持った写真のポスターが大ヒットし、今では70年代を象徴するアイテムのひとつとなっている。「おそい夏」は73年11月にコロムビアからリリースされた唯一のシングル曲である。78年には引退して現在は静かに暮らしているという。53年12月15日東京生まれ。
■■■ サミー前田 ■■■