2013年の『STRAIGHT OUT OF HELL』リリース時に、HELLOWEENの三代目担当者さんからお話をお訊きしましたが、今回はその前任の二代目担当・植田勝教氏にご登場願いました。氏は、現在ビクターエンタテインメントの代表取締役専務で、奇しくも新作『HELLOWEEN』の発売日の翌日6月17日から同・代表取締役社長に就任されます。現・HELLOWEEN担当である五代目の私からすると、何とも心強い限り(笑) 「『守護神伝』を売った男」、興味深い話が訊けそうです。

五代目:まずは、社長就任おめでとうございます(笑)(←ゴマスリ)

植田:ありがとう(笑) メタルやってて社長になったって、ここでは響きが楽しいよね。生え抜きの制作・宣伝畑の人間が社長になるのは、僕が入社して以降では初めてだと思うんだよね、勿論ビクターの制作部の先輩でレーベルの社長になった方は何人かいらっしゃったけれど、皆さん他の会社に移られてからだったからね。

五:それは意外ですね。当時は今よりも「制作部は花形」というイメージが強く、社長になるとしたら制作部出身が多いと思っていたのですが。

植:ビクターは特にそうだったのかもしれないけれど、昔のレコード会社は営業部がとても強くてね。東京だけでも渋谷と上野、大阪や名古屋、福岡、札幌といった主要都市以外にも広島、仙台、金沢、四国にも営業所があって。当時は、「制作部が何言ってこようが、俺たち営業部がお店から注文をたくさん取ってきて売上作ってやるよ」という雰囲気も少なからずあったくらい、営業部はビッグフォースだったんだよ。昔はレコード店の数も多くて店舗の規模も大きかったしね。

五:そうだったんですね。そんな中、植田さんが洋楽の編成担当になり、HELLOWEENに関わりはじめたのはいつからですか?

植:入社から丸5年間、洋楽の宣伝担当をやっててね。ディスコ・ミュージックが流行っていたから、今じゃ信じられないかもしれないけれどディスコにプロモーションに行ったり、USENや出版社、ラジオ局やテレビ局に行ったりしてた。洋楽の編成担当になったのは87年の4月から。編成ディレクターになったばかりの時は当然担当アーティストなんていないから、「誰も担当していないアーティストを担当して」と言われたの。まあ簡単に言えば、先輩ディレクターが担当したがらなかったアーティストということだよね。その中にいたのがHELLOWEENだったんだよ。

五:なんと! 当時は引き取り手がいなかったのですね!

植:『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART I』は確かその年の4月21日発売だったと思うんだけど、HELLOWEEN担当の前任者、つまり初代が、その発売を待たずしてビクターを退社しちゃったんだよね。それで4月1日から僕が引き継いだの。すでに編成作業は初代が終わらせていたんだ。だからそれを売っていくことが、HELLOWEENでの僕の最初のミッション。

五:とすると、『守護神伝』という邦題をつけたのは…

植:初代担当者だね。

五:洋楽宣伝時代に、この『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART I』の宣伝はやってらしたのですか?

植:いや、やってない。その前の年、86年に『THE FINAL COUNTDOWN』が大ヒットしたEUROPEとかならまだしも、当時のHELLOWEENやMADISONのようなこれから日本デビューするストレートなメタル・バンドであれば、宣伝スタッフではなく編成ディレクター自身が音楽専門誌中心に宣伝するのが通例だったから。宣伝は、CULTURE CLUBやライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダーだったり、EAGLES解散後のグレン・フライのソロ・アルバムだったり、マイケル・ジャクソンが参加した映画『E.T.』のサウンドトラックのようなポピュラリティのあるアーティストには関わっていたね。

五:なるほど。ちなみに元々植田さんはヘヴィ・メタルに造詣は…

植:ない、全くない。もちろんロックは好きだから、中学時代からGRAND FUNK RAILROADやKING CRIMSONだったり、DEEP PURPLE、PINK FLOYD、FREEだったりは聴いていたけどね。ちなみに僕が中学1年生のときに、PINK FLOYDが「箱根アフロディーテ」で来日してる。B.B.キングやFREE、BLOOD, SWEAT & TEARSやCHICAGOなど、1970年初頭から外タレが多く日本に来るようになったね。そんな時代に洋楽にどっぷりハマったから、当然ロックに傾倒していくわけ。当時はロックはロックで、ヘヴィ・メタルみたいな細分化もされていないから、サンタナも聴けばEAGLESも聴くし、THE ALLMAN BROTHERS BANDも聴けばDEEP PURPLEやLED ZEPPELINも大好き、という人たちが多かった。そんな中、DEEP PURPLEからリッチー・ブラックモアが脱退して、RAINBOWが生まれる。僕はRAINBOWの1stアルバムは聴いたけれど、自分にはピンと来なかった。ロックは凄く好きだけど、ヘヴィ・メタルは当時の僕の中には入ってこなかったんだね。だから、「HELLOWEEN担当してくれ」と言われたとき、ことヘヴィ・メタルに関しては僕はド素人だったということ。

五:そうだったのですね。そんな植田さんは、HELLOWEEN以外に最初どういったアーティストの編成を担当されたのですか?

植:そのHELLOWEEN初代担当から引き継いだものは全部だね。ユーロビートのシングル盤もやってたね。

五:時代的にCDでなく7インチのアナログですか?

植:そう、ドーナツ盤。その当時は日本のアイドルがユーロビートをカヴァーしたシングルがやたら多かったのよ。僕が引き継いだそのシングル盤は誰だったかな。早見優さんだったかな。

五:年やジャンルは違えど、五十嵐夕紀さんがRIOTの「Warrior」をカヴァーしたり、西城秀樹さんがグラハム・ボネットの「Night Games」を歌ったりしてたんですものね。

植:いっぱいあったと思うよ。

五:その引き継いだ中に、HELLOWEENの他にハード・ロック/ヘヴィ・メタルのアーティストはいたのですか?

植:いや、HELLOWEENだけだったんじゃないかな…

五:ということは、87年の時点ではビクターはそこまでメタル推しのレコード会社じゃなかったということですか?

植:EUROPEの『THE FINAL COUNTDOWN』が86年リリースで、3枚目のシングルカットになった「Carrie」から僕が担当することになったんだけど、EUROPEは83年のデビュー・アルバムのときに伊藤政則さんが当時洋楽編成の課長だった横田さんのところに持ち込んでくださって。ビクターはアメリカのCasablancaというレーベルと契約を交わしていたから、元々横田さんはそこに所属していたKISSを担当していたんだよ。KISSの「地獄」シリーズの名付け親だね。あとはイギリスのBronze Recordsとも契約していたから、メタル系で言えば他にはMOTORHEADやGIRLSCHOOLがいたくらいかな。他は初代が見つけてきたMADISONとか、途中でビクターから別のレコード会社にいかれた方が発掘したWHITE LIONくらい。だから、その当時のビクターは全然メタル・カンパニーではなかったね。

五:他にはTANKとか、それらよりも少し前の70年代ですが初期のRIOTくらいでしょうか。

植:そうだね。まあ、MCAというレーベルがあった頃は、DIAMOND HEADやTYGERS OF PAN TANGも居たけど、しばらくしたらMCAもこの会社の扱いではなくなっちゃったから。レーベル契約として残ったのはBronzeくらいで、あとはワンショットでバンド毎に契約をしていったんだよね。HELLOWEENやEUROPE、WHITE LION、MADISONのようにね。

五:ワンショットで契約したHELLOWEENですが、契約するに至った経緯はご存知ですか?

植:初代が契約したから詳しくはわからないけど、西新宿あたりでデビュー・アルバム『WALLS OF JERICHO』の輸入盤が飛ぶように売れていたというのは間違いない。新宿レコード辺りに集う濃いファンを中心に、当時からジャーマン・メタルは盛り上がりを見せていた。現代のようにインターネットも無く海外からの情報も入ってこない中で、「西新宿カルチャー」と呼ばれる界隈では、HELLOWEENやRUNNING WILDみたいなドイツ出身のメタル・バンドの人気が急上昇していたはずだよ。それをいちばん熱心に広めていったのは和田誠さんだったんじゃないかな。和田さんは、当時確かラジオ日本だったと思うんだけど番組をやってらして、そこに初代担当者はよく出入りしていた。そういった経緯もあったのかもしれない。

五:では『WALLS OF JERICHO』が輸入盤市場ですでに火が点いていたんですね。同じくHELLOWEENを獲得しようとする競合他社はいなかったのでしょうか?

植:いなかったんじゃないかなあ。特に聞いた覚えはない。その後自分が編成担当になってから獲りに行ったBLIND GUARDIANとかHEAVEN’S GATEが居たNO REMORSE RECORDSのときは狙ってた会社が最低ひとつはあったけど。当時から他にもワンショットのメタル・バンドを扱う日本のレコード会社は僅かながらあったからね。

五:『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART I』で日本デビューを果たすHELLOWEENですが、デビュー直前の彼らに対するビクターの期待感はどの程度のものだったのでしょうか?

植:ほとんどなかったんじゃないかな。もしあったら、初代担当が退社した時点で他の先輩ディレクターが後任として手を挙げてるよね(笑)

五:HELLOWEENに限らず、ハード・ロック/ヘヴィ・メタル全般に対してそうだったのかもしれませんね。EUROPEの『THE FINAL COUNTDOWN』が売れてたにしても。

植:そうだね。ただ『THE FINAL COUNTDOWN』は本当によく売れたんだよね。デビュー作『EUROPE』からヒットして、傑作2ndアルバム『WINGS OF TOMORROW』でさらにステップアップしたあとだから。確か2ndアルバムのときだったと思うけれど、ジョーイ・テンペストがプロモーションで来日したんだ。そのとき僕は『週刊FM』だったか『FM STATION』だったか、どちらかはよく覚えてないけど、いわゆるFM誌の宣伝担当で、西新宿の高層ビルの真ん中にジョーイを立たせてフォトセッションしたりしたよ。彼は凄くカッコよかったね。それを鮮烈に覚えてる。『THE FINAL COUNTDOWN』は当時16万枚くらい売れたはず。大衆性があったし洋楽部全体でプッシュしたね。

五:ではHELLOWEENに話を戻して、『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART I』は今でこそ同『PART II』と併せて「メタル史上に残る名盤」と言われていますが、リリースされてすぐにメタル・ファンに評価されたのでしょうか?

植:発売してすぐにドカーンと売れたわけではないから、今のように名盤扱いをされてはいなかったはず。ドカーンと売れたのは『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』を待ってだと思う。でも『PART I』のあと初来日しているから、勿論人気はあった。87年10月のハロウィーンのときに、伊藤政則さんがやってらしたメタル・ディスコにプロモーターのウドー音楽事務所の人と一緒に行って、チケットを売り伸ばすためにプロモーションしたのを覚えているよ。それで翌月11月に来日したんじゃなかったかな。

五:初来日のときの日本のお客さんの反応はどうでしたか?

植:凄く良い反応だったよ。盛り上がってた。

五:植田さんはそのとき初めてメンバーに会ったのですよね? 各々どういう印象を持たれましたか?

植:ヴァイキー(マイケル・ヴァイカート)は、風変わりな人だなと思った。

五:例えばどういった点が?

植:……挙動。

五:ハハハハ!

植:わかるでしょ?(笑)

五:わかります(笑) ちなみに三代目担当さんにインタビューしたときも同じこと仰ってました。

植:昔から変わってないってことだね(笑)

五:他のメンバーは?

植:イイ奴だったインゴ(・シュヴィヒテンバーグ)。

五:それを表す何かエピソードは?

植:具体的なエピソードというより、僕がまだ編成担当になったばかりで外国のバンドの扱いにも慣れていない中、ちょっとしたやり取りで「優しくてイイ人だな」と感じたんだよね。

五:そういう植田さんの雰囲気を感じ取って、優しく接してくれたのかもしれませんね。

植:そうだったのかもしれないね。マーカス(・グロスコフ)も和やかな雰囲気の人だったね。マイケル・キスクは我が道を行く感じ。カイ(・ハンセン)は普通の人。

五:え、カイは「普通」だったんですね。今でこそロックスター然とした人ですけどね。

植:ホントに? そうなの? 信じられない、ウソでしょ?(笑) 全然そんな人じゃないイメージ(笑)

五:余程信じられないご様子で(笑) 来日したとき、そんなメンバーと一緒に食事にいったりもしましたか?

植:多分、六本木の「しゃぶ禅」だったかに連れて行ったんじゃなかったかな。

五:その初来日を経て、ついに『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』が出てくるわけですが、最初に聴かれた印象は?

植:すっごくカッコイイと思ったね。何かキャッチーになったよね。「Eagle Fly Free」で「うわー、スゲー」って感じて、「I Want Out」も入ってたし。

五:「March Of Time」も。

植:ああ…「March Of Time」(溜息) あの曲は振り切れるよね。これぞHELLOWEENっていう名曲。これぞジャーマン・メタル。「March Of Time」ってカイが作った曲だよね。『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』って、ヴァイキーが目立ってる印象を持たれがちなアルバムだけど、カイも凄く良い曲書いてるんだよ。

五:そうですね、「Eagle Fly Free」という超名曲をヴァイキーが書いたことによる印象でしょうね。

植:何にせよ、その3曲が入ってたんだからね。メタルにそこまで明るくなかった僕でも、「メロディがカッコいい」とか「疾走感カッコいい」とかは当然わかるわけだし、どんどん学んでいくワケだからね。だから、理屈抜きにカッコいいアルバムだと思ったよ。

五:では、コレはイケるな、と?

植:思ったね。それと、これから盛り上がってくる沸々とした熱い感じもあったんだよ。

五:植田さんは『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART I』と『PART II』、どちらがお好きですか?

植:改めて両方聴いてみないと分からないけど、やっぱり『PART II』じゃないかな。曲は粒揃いでアルバム全体の完成度も高かったし、何より『PART II』は自分で編成したという想い入れもあるからね。

五:そうですよね。そんな傑作『PART II』を最後に89年にカイが脱退します。どう思われました?

植:いやもうビックリだよね。でも体調が悪いという話もあったから。確か肝臓かどこだかが悪いみたいな。ただ、カイ・ハンセンが辞めちゃうって当然のことながら驚きだよ。だって始祖みたいな人でしょ。カイ・ハンセン=HELLOWEENというイメージもあった。日本では最初から「ヴァイキー大好きです」っていう人よりも、カイのファンの方が多かったと思うんだよね。ヴァイキーはあとから凄さが評価されたけど。キスク加入前はカイが歌っていたというのもあるからか、やっぱり初期HELLOWEENの主役はカイだった。主役がいなくなるという驚きはあったね。

五:彼の脱退によって、バンドはかなりパワーダウンする、と。

植:どうなっちゃうんだろうと。ただ、カイがGAMMA RAYを結成して、デビュー作『HEADING FOR TOMORROW』が出てきて「何だコレ! スゴイ!」と思ったし、一粒で二度美味しいとも思った(笑)

五:なるほど(笑) 本家と分家のような感じで。『HEADING FOR TOMORROW』を担当されたのは?

植:僕だね。1990年3月、GAMMA RAYのそのアルバムと、RAGEの4thアルバム『SECRETS IN A WEIRD WORLD』、それとSCANNERの2ndアルバム『TERMINAL EARTH』の日本盤を同時にリリースして、そこからNOISE INTERNATIONALっていうドイツのレコード会社とのレーベル契約が始まったんだ。それまでHELLOWEENはNOISEとの単発契約だったけれど、NOISEから「レーベル契約にしよう」という提案もあってね。その第1弾がGAMMA RAY、RAGE、SCANNERで、「ジャーマン・メタル・キャンペーン」とか銘打って、RAGEのカタログなども含めてドイツのメタル・バンドの作品をドンドン売り出していったんだ。

五:日本におけるジャーマン・メタルの人気の黎明はそのときだったのですね。

植:そう。とにかくGAMMA RAYの「Heading For Tomorrow」の♪We are heading for tomorrowっていうのを聴いた瞬間、「これは凄いな」と思って。

五:ラルフ・シーパースがいましたものね。

植:HELLOWEENにはマイケル・キスクがいるけれど、GAMMA RAYのラルフも凄いシンガーだな、と。当時はシーン全体でジャーマン・メタルのCDが本当にたくさん売れたよね。

五:カイ脱退後、ローランド・グラポウを迎えたHELLOWEENは4thアルバム『PINK BUBBLES GO APE』をリリースするわけですが、どういう印象でしたか? 『KEEPER OF THE SEVEN KEYS』2部作からすると異色な作風でしたが。

植:ビックリはした。NOISE INTERNATIONALとEMIというレコード会社と、SANCTUARYというマネジメントが関わっていて。HELLOWEENはベルリンにあったNOISE INTERNATIONALに所属していたんだけど、それをSANCTUARYのロッド・スモールウッドが世界的なバンドに育てようとしたわけだよね。それでメジャーのEMIが登場してきたことによって、それらふたつのレコード会社がHELLOWEENを獲り合ったんだよ。その間に挟まれて、HELLOWEENが活動できない期間が生まれて、『PINK BUBBLES GO APE』も発売ができなくなった。金銭的なことも含めてそのビジネス上のトラブルにビクターも巻き込まれてね。それを解決して『PINK BUBBLES GO APE』をリリースするまで相当骨を折った。ビクターの海外渉外担当にも色々相談して、ウチが損害を被らないためにするにはどうするのが一番良いかを色々考えたよ。発売までの道のりは長かったから、内容云々以上に、問題が解決してようやくリリースまで漕ぎ着けられたという喜びはあった。

五:なるほど。

植:一方、ジャケット写真は随分小綺麗になってね。それはいいけど、これまでのHELLOWEENのジャケット写真とは全然違うし、曲も「アレ?」っていうのも正直あった。

五:ということは、『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』に比べてセールスは?

植:いくらCDが売れてた時代とは言え、落ちたと思うよ。あのアルバム、デンマークでレコーディングしたんだよ。コペンハーゲンからオーフスっていうところまでプロペラ機で飛んで、そこから『アルプスの少女ハイジ』みたいに草原の真ん中に道がずっと一本あるところを車で走ったところにPuk Studiosっていうのがあって、そこに和田誠さんと一緒に取材に行って、どんなアルバムになるのかメンバーに話を訊くわけ。リリースに至るまでの経緯もあるし、クリス・タンガリーデスがプロデュースするから、「どんなアルバムになるんだろう?」と思っていたら、聴かせてくれた音は、『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』までのHELLOWEENや、GAMMA RAYや、当時日本で熱い視線を注がれていたBLIND GUARDIANといったジャーマン・メタル・ファンが期待していたものとは異なったから、戸惑ったよね。とても戸惑った。

五:その異色作『PINK BUBBLES GO APE』を携えて、92年、HELLOWEENは3度目の来日を果たします。結果的にインゴにとってそれが最後の日本ツアーとなりました。

植:そのツアーの広島公演の本編最後の曲だったと思うけど、インゴが突然叩くのを止めてドラムキットに突っ伏しちゃったんだよ。

五:それは曲が終わったあとですか?

植:いや、曲の途中。本編ラストの曲だったと思うから、コンサートはほとんど終わってるんだけどね、突っ伏しちゃって、状況が飲み込めないままショウは終わったんだ。「ヤバい」と思って、急いで楽屋の手前のところに行ったら、泣いてるインゴをメンバーの誰かが抱きかかえて降りてきた。確か近くの大学病院かにウドー音楽事務所の人が連れて行ったんだ。事故だよね、大事故。それが目の前で起きてるから…

五:マネジメントから事前に「インゴは精神的に不安定になってて大変な状況なんだ」みたいなことを聞かされていたのですか?

植:全然。僕は知らなかった。だから突然キットに突っ伏した彼を見て本当に驚いた。

五:次のアルバム『CHAMELEON』発表後、インゴは脱退。そして自ら命を絶つという悲劇が起きてしまうのですが、彼の訃報はどういう形で耳にされたのですか?

植:脱退後だから近況を常に把握していたわけではなかったから、聞いた瞬間のことを克明に憶えてはいないけれど、列車に…って話で。極めて痛ましいよね。さっき言ったように、気さくで好青年という印象だったから、尚のことね。HELLOWEENサウンドの強烈なインパクトは、あのツーバスに因るところが大きい。あのツーバスが基盤にあって、曲が疾走し、そこに大きなメロディが乗っかってくるというのが様式だったんだ。特に『KEEPER OF THE SEVEN KEYS - PART II』は、インゴのドラムの見せ場がいっぱいあってカッコいいなと感じてたし、「亡くなった、しかも自ら…」というのは本当にショッキングだった。「To Katz」と手書きしたドラムスティックを僕にくれるくらい、優しい人だったからね。

五:ショックは計り知れませんね…

植:バンドはライフ(人生)だからね。カイの結婚式にも招待されて出席したし。

五:それは最初の奥さんですか?

植:どうだろうな…

五:最近また結婚して、子供も生まれましたよ。

植:そうなの? 最近のロックスターのカイ・ハンセンはよく知らない(笑)

五:(笑) 植田さんが最後に担当されたHELLOWEENの作品は?

植:『CHAMELEON』まで僕が担当し、そのアルバムのツアーから三代目に引き継ぎました。だからHELLOWEENが日本で最も売れた時代は、三代目になってからだね。

五:90年代半ばからは、日本のメタル史上一番CDが売れた時代というのもありますしね。

植:キスクが脱退して、アンディ・デリスが加入して、『MASTER OF THE RINGS』がドカーンと売れたからね。それまでもHELLOWEENとイングヴェイ・マルムスティーンは人気が凄かったのよ。日本でのセールスだけで言えば、彼らはJUDAS PRIESTやIRON MAIDENのような世界的なメタル・バンドを凌駕していた。ただ、HELLOWEENのセールスが本当に爆発したのは、アンディ加入後だよね。

五:日本だけで20万枚とか売れたわけですものね。

植:『CHAMELEON』も苦難のアルバムだったよ。『PINK BUBBLES GO APE』以上に、当時メタルから離れたがっていたマイケル・キスクの色が濃く出た作風だからね。

五:その『CHAMELEON』を最後にキスクは脱退します。

植:うん。そういえばキスクのソロ・アルバムも出したな。僕がひとりでメタルを担当していたけれど、作品数がどんどん増えてきたから、HELLOWEEN三代目担当となる人を洋楽編成チームに入れて、その後他にも数名入れて。最盛期は5~6人でメタル担当していたから。出せば出すだけ売れるという時代だったんだよ。

五:凄い時代ですね。三代目さんに引き継がれた後、つまりHELLOWEENから離れてみて、気づいたことはありましたか?

植:HELLOWEENがさらに売れて、ANGRAが出てきてデビュー作の『ANGELS CRY』が10万枚売れて、その次にBLIND GUARDIANとかもいて。洋楽部の編成グループ長、次長、部長という部門を見る立場になっていって、ビジネス的にもその中心にいたHELLOWEENにはだいぶ助けられたね。だって、HELLOWEENから全てが始まっているのよ。何せANGRAも、その前身のVIPERも、ビクターに紹介してくれたのはHELLOWEENの最初のマネージャーのリム・シュノールだからね。全部HELLOWEENが起点になったんだよね。HELLOWEENとの単発契約があったからNOISE INTERNATIONALとのレーベル契約が実現して、ジャーマン・メタルを日本に広められた。その直前にはSANCTUARYのロッド・スモールウッドとも知り合うことが出来た。ロッドと僕とはお互いに信頼・信用し合って、彼は色々なバンドをビクターに持ち込んでくれた。HELLOWEENが日本で売れたことが全てのスタートで、それからBLIND GUARDIANやACCEPT、THUNDERHEADとも契約したし。SCORPIONSやウリ・ジョン・ロート以外の主なジャーマン・バンドは全部ビクターに来た、みたいな感じがあったからね、当時は。KREATORもビクターだったわけで。ジャーマン・メタルから派生してSTRATOVARIUSとも契約したし、HELLOWEENの成功があったから一大ビジネスになったんだよ。

五:HEAVEN’S GATEたちもいたわけですしね。

植:そう。とにかくメチャクチャ面白かったよ。

五:そんな最重要アーティストHELLOWEENとの関わりの中で、一番印象深いエピソードは何ですか?

植:今言われてパッと思いつくのは、5、6年くらい前、六本木の交差点から駅に向かって歩いていたとき、「Katz!!」って大声で呼ばれて振り返ったら、アンディやヴァイキーやマーカスたちが立ってて。「何やってんだ、こんなところで!」みたいな立ち話になってね。アンディなんて直接担当したわけでもないのに、そういうのは嬉しいよね。

五:そんな偶然あるんですね。

植:あとは、「PUMPKINS UNITED」のツアーで来日した時、ライヴ観に行って終演後にメンバーに挨拶したけれど、凄く温かく迎えてくれる感じが嬉しかったね。お互い歳はとったけれど、向こうもまだやってるし、こっちもまだやってるし。イイ奴が多いよね。いわゆる「お高くとまったロックスター」がいないよね。まあ、カイ・ハンセンは意外でしたけど(笑)

五:ハハハ(笑) 一方、一番苦労したことは?

植:それはさっきも言った『PINK BUBBLES GO APE』の塩漬けだね。NOISEだけと仕事していたときはそうでもなかったけれど、ロッドが関与するようになってHELLOWEENは大型プロジェクトになっていったから、ビクターとしても結構なおカネが動いていたし。ロッドとしてはIRON MAIDENの世界的成功が頭の中にあってワールドワイドでEMIと契約するという選択肢もあった中、ビクターのことを尊重してくれて日本のテリトリーはウチに持ってきてくれたわけだから、それはそれなりに対価を払った。そんなアルバムが塩漬けになるのはキツかった。先におカネだけ払って、塩漬けになっている間にバンドが崩壊したりして結局リリースできない可能性だってあったのだから、当時の僕としては不安にさせられたね。

五:確かに。植田さんにとって一番好きなHELLOWEENのアルバムは何ですか?

植:『KEEPER OF THE SEVEN KEYS』。もっと細かく言えば『PART II』。最初に編成を担当したHELLOWEENの作品というのもあるけれど、そういった感情を抜きにして内容だけで見ても、素晴らしいじゃない? 『WALLS OF JERICHO』の粗削りな感じもなくなって、とにかく曲が粒揃い。我々がHELLOWEENに求めているものが、このアルバムには凝縮している感じ。「March Of Time」なんて未だに僕は感動すると思うよ。あの5人だから作れたアルバム、ということなんだろうね。

五:間もなく6月16日にカイとキスクが復帰してのアルバム『HELLOWEEN』が発売になりますが、アルバム聴かれていかがでしたか?

植:感慨深いよね。数十年のときを経てカイが戻ってきて、「PUMPKINS UNITED」ツアーのときにはすでにそうだったけどマイケル・キスクとアンディ・デリスが並んでいるわけでしょ? 有り得ない出来事としか思えない。ヴァイキーとカイがまたツイン・リードを弾くなんて、当時関わっていた人間の感覚からすると、「そんなこと有り得るか」って。どうしても思い入れ的に『KEEPER OF THE SEVEN KEYS』を贔屓しちゃうけれど、数十年経ってまた一緒にやってくれるのは本当に有難いよね。今の7人で作れる最高のものだと思うよ。

五:そのとおりですね。では最後に。植田さんにとって、HELLOWEENとは?

植:「面白かった」。面白かったし、すべての起点になってくれた。HELLOWEENの成功なくして、ドイツのロック・シーンの関係者たちが、僕に色々連絡くれることもなかった。それに、EMIと全く関係ないのに、マネージャーだったロッドとも良好な関係を築けた。ブルース・ディッキンソンのソロやHALFORDが所属していたMETAL-ISというレーベルを持ち込んでくれたのもロッドだし。そういう意味でも、HELLOWEENから始まったわけだよね。僕はヘヴィ・メタルという音楽に深い思い入れがあったわけじゃないけれど、たまたまHELLOWEENを担当して、アルバムもたくさん売れたし、仕事していてメチャクチャ面白かった。日本人が行ったことのないようなドイツの土地にも散々行ったしね。それからさっきも言ったけれど、触れ合うとみんな良い人なんだよね。本当にロックが好きな素朴な青年たちなのよ。グラマラス・ライフに憧れていると表明している人はいなくて、純粋にロックが好きで、自分たちの音楽をファンと共有できるのを至上の喜びと思っている人たちだから、一緒に仕事してて気持ちよかった。HELLOWEEN担当してるうちに僕もメタルを解ってきたし、彼らから派生した仕事のすべてが僕にとっては面白かった。その起点になったHELLOWEENは、当然最も「面白かった」し、有難かったよね。87年4月、偶然僕にそんなバンドの担当のお鉢が回ってきたんだから、人生って面白いよね。



『MASTER OF THE RINGS』でゴールドディスク獲得。写真右端が、手前に写る三代目に担当を託したあとの植田氏。


87年の初来日ツアーでのカイとヴァイキー。(Photo: Koichiro Hiki)


87年の初来日ツアーでのキスク。(Photo: Koichiro Hiki)


87年の初来日ツアーでのマーカス。(Photo: Koichiro Hiki)


92年の『PINK BUBBLES GO APE』来日ツアーでのインゴ。


インゴ本人から植田氏に渡されたスティック

HELLOWEEN『HELLOWEEN』
2021年6月16日(水) 日本先行発売

完全版:VIZP-167 / ¥3,960(税込)
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●ボーナス・トラック4曲入りCD付属(うち1曲は日本限定)
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通常版:VICP-65555 / ¥2,860(税込)
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