I.D.向上委員会 : 2000.05.19

『 私の五月病 』

「うるさい」って漢字で書くと「五月蝿い」なんですよね。
どうしてこんな字なんだろう。つまり五月の蝿はうるさいぞってこと?
そんなことを考えている矢先、先日仕事中に私の持っていた譜面に一匹の蝿がとまったのです。いつものことですが、本当はぎゃーとか言いたいのに、こういう時は声も出せないのです。 私はとにかく大の虫嫌いなのです。
ちなみに私が言ってるのは「イヤーン虫こわ~い」とかいうレベルの嫌い方ではありません。もう恐ろしいというか、私にとってすさまじい恐怖なのです。
ああ、もう虫の季節になってしまったのか…。これからどんどんあたたかくなって、もっと虫がたくさん出てくることを思うと憂鬱でなりません。

今回のお題は「私の五月病」ですが、私にとって「学校行きたくないよぅ」の憂鬱より「虫がいっぱい出てくるよぅ」の憂鬱のほうが遥かに大きいので、こちらが私の五月病だと思います。
これが6月くらいになると、もう諦めがついてくるのだけど。あとはただ夏が終わるのをおとなしく待つだけ。

憂鬱なことは、生活の中に死ぬほど埋まってる。小さなこともあるし、大きなこともあるし。
でも憂鬱って、逃げられないことだから憂鬱なんですよね。
結局そのことに面と向かわなくちゃいけないときが来て、それを絶対に避けることができないから憂鬱なんですよね。
だからこの感情は本当に辛いものです。すごいストレスになります。私も時々耐えられないほどの憂鬱に見舞われることがあります。本当に耐えられないくらいの。 「これとお産はどっちがつらいかなあ」ってくらいの。
そんなときにとる行動その1、現実逃避。
やっぱりこれが最も簡単な方法でしょう。でもこれは長続きしないし、何の解決にもならないことを自分でよく分ってるので、後から輪をかけて空しさが襲ってきます。
結果的に自己嫌悪になっちゃう可能性もあるので、リスクは大きいです。
その2、発散。
私の場合は誰かに思いっきり愚痴を聞いてもらうか、バッティングセンターで満足するまでボールを打つこと。それから涙で洗浄するっていうのもあります。
そしてその3、プラス思考。
一番健康的で誠実なパターン。私もできるだけここにたどり着けるように心掛けていますが、それも大きな憂鬱の直中に入いる時には至難の技です。私が得た教訓はこう。「こうしてずっと嫌だ嫌だと思っていたことに限って、実際にそのときが来ると意外な収穫があるものだ」。別に根拠はないんだけど、私はこの考え方を信じています。

例えば面倒だと思ってたパーティも、行ってみたら意外と楽しかったり、すてきな出合いがあったり、美味しいご飯が食べられたりすること。
憂鬱に駆られた時にはなるべくそう思うようにして、その最悪な出来事からでも何か一つは自分のためになるものがあるはずだと考えるようにしています。
事実、今までのことを考えるとそれは大体の場合当たっていると思うのです。
学ぼうと思えば、何からでも学びとれるのです。毎日生きてるといろんな嫌なことがあるけど、できればこうして学ぼうする気持ちが、少なからず自分を豊かにできるのだと思うのです。
私もできた人間ではないので、これを実行できない時もあるのだけど、たとえ10年後でもいいから、そのことにいつか気づくことが大事だと思います。

もう一つ。
憂鬱な時とか落ち込んでる時って、みなさんどういう音楽聞きたくなります?
私はそういう時こそどっぷり悲しい音楽聞きたくなります。
もしくは破壊的とか、自虐的なやつ。元気出せ系の曲は、逆にプレッシャーを感じてしまうというか、 なぜかうざったく思えてしまうんです。それは私が素直でないからなのかもしれませんけど。
反対に、気分上々なときにはできるけさわやかで、勢いのある音楽を聞きたい気分になります。
こうして考えてみると、悲しみや喜びや、やる気や自暴自棄、その時々の私の気分に拍車をかけるのは音楽なんだと思う。ただ感情が生まれるだけじゃなく、さらにそれを具体的にというか、 拡大して感じさせてくれるのが私にとっての音楽の魅力だと思う。
自分でうたったり詩を書くようになってからは、誰かの耳の中で私のうたがその人の感情を拡大しているかも知れないのだからおもしろい。

*maaya*