I.D.向上委員会 : 2001.03.16

『 9年目の春 』

こないだどっかのインタビューで、誰のために歌うのかって聞かれて、速攻「自分のため」と答えました。それがそっけなく聞こえたらごめんなさい。
でもゆっくり何度も噛み締めて考えてみたとしても答えはやっぱり同じ。
「自分のため」。

私は人に干渉されるのが苦手で、集団行動よりは単独行動が得意。
誰とでも気さくにというよりは、どうしても人との間に壁を作ってしまう癖がある。
そのくせ自意識が過剰で、弱いところや失敗を人に見られるのが怖かったり、自分自身にも完璧を求めて過剰なノルマを与えてしまうようなところもある。
そんな私が人に何かを心から伝えたいと思っても、口は思った通りのことばを発してくれなかったり、余分な単語が真意を埋もれさせてしまうこともしばしば。
思いを伝えたい、何かの役に立ちたい、願いを唱えたい、ハッタリかましたい、自分を確かめたい、、、そんな、誰でも持ってる普通の気持ち。個人的な思い。願望。欲望。
実際にそれを表現するには、人それぞれに一番向いてる方法があるんだと思います。
それが、誰にでも与えられている「ことば」。
私の場合は、うたとか文章がその「ことば」なのだと思うのです。
普段私が何げなく喋っていることばに、それほどの力があるとは思えません。
自分の言いたいことのすべてを適格に話すという技が私にはなく、どうしても表現しきれない「燃えカス」が残る。
燃えカスは溜まると身体に悪い。
そして、「どうせわかってもらえないのだから」と、人との深い会話を面倒くさがってしまうようになります。
でも一方で、湧き出る気持ちやメッセージはますます勢いを増して熱を失わない。
そんなアンバランスな私が唯一持ち合わせていた幸運は、歌うための声。
楽しい居場所を見つけられてよかった。
もしこれを発見できないままだったら、私は胸の中のカスにヤられてしまうところでした。

そういうわけでして、動機はまったく単純なのであり、もっともシンプルなところまで突き詰めていくと、すべては自分のために他ならないのです。
少しおわかりいただけたでしょうか。私のうたの種が、どこに実るのか。
決して誰かのために書いた詞じゃない。
誰かのことを救いたくて歌うなんて、そんな神様みたいなことはできない。
でも、こんなに個人的な私の祈りや、喜びや、怒りや、恋心が、見えない力になってどっかの誰かの心に入り込んだりすることもある。
ときどき、見知らぬ人を支えることも、励ますことも、もしかしたら傷つけてしまうこともあるかもしれない。
つまりそこにあるんだ、共有している何かが。
本当は見知らぬ人と、本当は別々の理由からなる感情が、ひとつのうたで繋がって、反応しているんだ。
種が飛んで行って、何処かの土で育つみたいに。
きっとこれが、誰でもみんな等しく与えられている「ことば」の「ちから」。
絵描きは絵の具で感情を表し、コックは料理で幸せを届け、カメラマンは写真で風刺をするように、
私にはうたが「ことば」となり、「ちから」になる。

一瞬ごとに生まれ、うねり、消えていく感情の波。
脳みその中をめぐる思考、記憶、単語。
人間を創るそれらの要素、ひと粒ひと粒がきらめきです。
きっと「ルーシー」は、私の20年分のきらめきを集めた結晶です。
透明なのか色付きなのか、しょっぱいのか甘いのか、
どうぞあなたの手で、目で、耳で、鼻で、舌で、いろんな角度から味わってみてください。
そうした結果、 あなたの身体に埋まってる結晶と共鳴するうたが1曲でもあったなら、それはあなたの中にも「ルーシー」という名前の平凡で貴重な細胞が生きているということです。

今聞いて欲しいのは私のうたに他なりませんが、
つまりはあなたの細胞の音だとも言えるかもしれません。

*maaya*