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さだまさしデビュー50周年記念
トリビュート・アルバム
みんなのさだ
<さだ研究会考察集>

さだまさしデビュー50周年記念トリビュート・アルバム「みんなのさだ」収録曲の、さだまさし公認「早稲田大学さだまさし研究会」メンバーによる考察集。

  • さだまさし研究会、通称「さだ研」は文化放送の深夜番組「セイ!ヤング」をきっかけに大学生を中心に全国津々浦々に設立され、その中でも”さだまさし公認”「早稲田大学さだまさし研究会」は他の大学の学生も巻き込み、設立41年の今も活発に活動中。

目次
  1. 道化師のソネット / ゆず : 高橋心美
  2. 案山子 / 槇原敬之 : 冨樫遙
  3. 秋桜 / 上白石萌音 : 加藤志保
  4. 風に立つライオン / 三浦大知 : 椎木康生
  5. 雨やどり / 福山雅治 : 西田聖子
  6. 精霊流し / 高橋優 : 丸岡由味
  7. 主人公 / 折坂悠太 : 高木敦史
  8. 修二会 / 木村カエラ : 高木敦史
  9. 新約「償い」 / MOROHA : 小熊麦
  10. まほろば / T字路s : 高宮玲央
  11. 北の国から~遙かなる大地より~ / 葉加瀬太郎 : 橋口敬子
  12. 関白宣言 / wacci : 荒井美紗絵
  13. 防人の詩 / 琴音 : 小林龍汰
  14. 虹~ヒーロー~ / MISIA : 瀬戸邦弘
  1. 道化師のソネット / ゆず

    高橋心美(早大さだ研 別班)

    ゆずはストリートミュージシャン出身で「弾き語りをする」フォークデュオであり、J-POPアーティストだ。その二人のたたずまいをさだまさしファンがみると、グレープの姿を思い出す人もいるだろう。

    ゆずの結成は1996年。当時は、デジタル音源を多用し、BPMが早く、展開も複雑な電子的な音楽が街にあふれていた。そんな中で、ゆずの音楽は「声」が主役であり、親しみの持てるメロディーと聞く人の悩みや心に寄り添う歌の世界で人々の心をつかむ。2004年アテネオリンピックのNHK放送テーマソング『栄光の架橋』は、高校の卒業式で歌われることも多い。それだけ彼らの歌声は若者の心に染み入る何かを持っているということだろう。

    一方、『道化師のソネット』が生まれたのは1980年。松田聖子をはじめとする綺羅星のごときアイドルたちが登場した時代だ。毎晩新聞のテレビ欄で好きな歌手の名前をチェックし、弟とチャンネル争いをしながらアイドルを追いかける子ども時代の私にとっては、さだまさしは実は「たくさんいるアイドルの一人」。『道化師のソネット』はそんなフツウの子どもの私にも歌詞がわかりやすく、哀しい歌なのに、静かに心の澱(おり)が浄化されて、光に満たされるような歌だった。

    そんな一曲が、ゆずの二人に歌われるとどうなるだろう? 北川が低いパート、岩沢が高いパートを受け持ち、それぞれの個性のある声があたたかいハーモニーを響かせる。それは、いそがしさにささくれ気味の私の心にゆっくりとしみわたり、潤してくれるやさしい甘露だ。彼らの声で歌われた、このまったく古びない魅力を持つ『道化師のソネット』は、新たな応援歌としていろんな世代のファンの心を掴むに違いない。

  2. 案山子 / 槇原敬之

    冨樫遙(早大さだ研第43代、お茶の水女子大学1年)

    人生をかけて、何かを成し遂げたい。田舎を離れ、大都会で闘って、自分の力を試したい…。そんな意気込みでこの春、故郷広島を後にして上京・進学した私は、忙しなく、果て無い都会の喧騒に呑み込まれて自分を見失い、呆然と彷徨っていた。そんな時、原点に立ち返らせてくれたのがさだまさしの「案山子」。自身の上京の思い出と、車窓から見た津和野の風景に着想を得て作られたこの曲は、私を「ふるさと」へと連れ戻してくれた。「帰っておいで」と言ってもらえる場所。離れていても、心の拠り所になる場所。変わっていく私をどんなときも、優しく受け容れてくれる場所。そんな故郷があるから、知らない世界で前に進んでゆける。いつでも私を見守っていて、背中を押してくれる存在を、自分のルーツを、思い出させてくれるのがこの曲である。

    津和野を訪れたことのある人なら、すぐにそれを想い出せる巧みな風景の切り取り方。故郷の家族から問いかける、生活に根付いた細やかな愛情と心配り。そんな温かい優しさと懐かしさに満ちた詩は、繊細な心情を機敏に読み取り、ありありと描き出す槇原ワールドに見事に溶け合う。

    朗々と歌い上げるのびやかな発声、飾らないストレートな歌い方、故郷の純朴さを思わせるまろやかな発音、「列車」「凩」詩に即した効果音のパーカッション、ポップなギターアレンジ。槇原の創るサウンドには、詩に描かれた情景をリスナーの眼前に映像のごとく描き出す力がある。本作でも、見慣れた故郷の光景と懐かしい人々の面影を見事に見せつけられた。人の心の機微に寄り添う優しさを持つ槇原のサウンドは、「案山子」の詩と混ざり合って懐かしさ、温かさ、そして都会の暮らしを近況報告したくなるような軽やかささえも滲ませている。寒さを温もりで包み込む雪景色のさだと、春の予感を強く思わせる槇原。ふたりの奏でる「案山子」は、まるで木の葉の色の異なる二つの故郷を見せてくれるようである。

    この曲に触れて故郷を思い出し、郷里の人々を懐かしく思うとき、この曲もまた、誰かの心の故郷になる。故郷の姿はそれぞれ違えど、その温もりを思い出すきっかけとなる曲。「案山子」は誰にとってもの故郷であり、そして故郷へと続く扉だ。

    さだまさしの「案山子」と、槇原敬之の「案山子」。この二曲は郷里を離れて日々格闘する人々を、それぞれの故郷へ誘う懸け橋となるだろう。槇原敬之が、ふるさとへ続く第二の扉を開いてくれた。

  3. 秋桜 / 上白石萌音

    加藤志保(早大さだ研第16代、図書館司書)

    「秋桜」は誰の歌でしょう。

    さだまさしの曲には違いないのだけれど、山口百恵のイメージで思い起こされる曲です。女性に仮託した世界だからということはもちろんですが、山口百恵のそれまでになかった意外性を引き出した歌だから。孤高の強い女性としてとらえられていた山口百恵が、私たちと同じように不安な思いを心の内に抱き「いつの日もひとりではなかった」「生きてみます私なりに」と歌う姿に、涙をこぼしながら憧れに加え慕わしさをも覚えたのでした。

    今回、上白石萌音が「秋桜」に新たな息吹を吹き込んでくれました。上白石萌音の優しく儚い歌声で歌われる「秋桜」は、新たな世界に踏み出す恐れる思いをまっすぐに響かせます。基準がなく不確かさに揺らぐ今という時代に、結婚に限らず新たな世界に踏み出すのは、ともすればかつて以上に大きな不安を抱えながら孤独に立ち向かってゆかなくてはならない。 上白石萌音のやわらかく真っすぐな歌声は、その新たな世界に押し出されるように向かう不安に震える「私」に、「ひとりではないよ」と呼びかけてくれるように響きます。「その不安を分かち合えるよ」と呼び掛けてくれる等身大の友の声として聴こえてきます。

    山口百恵と、上白石萌音に歌われる、力強い憧れの女神であり等身大の友として私たちに寄り添ってくれる「秋桜」。歌姫たちには、さだまさしが抱く女性たちへのエールが、しっかりと託され、変わらず紡がれています。

    「秋桜」に描かれた、小春日和の暖かで穏やかな陽だまり、それはさだまさしの私たちに注がれるまなざしそのものです。

  4. 風に立つライオン / 三浦大知

    椎木康生(早大さだ研第41代、東京大学医学部医学科3年)

    「風に立つライオン」の歌詞は、元恋人に宛てた手紙という形式をとっている。しかし、それは単なる手紙の枠を超えた、アフリカの雄大な自然と、「僕」の信念と切なさを描き出した文学作品であり、まさに作家さだまさしの面目躍如といえる。この歌詞と、時に語りかけ、時に訴えかけるようなさだの歌声と、荘厳な音楽とが相まって奏でられる「風に立つライオン」は、まるで一本の映画を見ているかのような錯覚さえ覚える。

    今回この曲を、日本を代表するダンサー・シンガーである三浦大知がカバーすることになった。表現者としての方向性が異なる両者のギャップを三浦がどのように超えてくるのか、正直私には予想がつかなかった。

    そんな疑問を抱きながら、三浦の「風に立つライオン」を聴いた時、私は驚いた。「この曲は生きている!」そう思った。聴いているだけで、身体が勝手にビートを刻み出していた。この曲には、それほどのエネルギー、活力があり、三浦の代表曲の「Blizzard」を彷彿とさせるほどである。それでいながら、さだが紡いだ「風に立つライオン」という文学の奥深さも、彼の優しくも力強い声から伝わってくる。アフリカで奮闘する「僕」が、草原の中で患者や仲間たちに囲まれて歌っている、そんな光景が目に浮かんでくる。このようなパフォーマンスをやってのける三浦大知は、やはり表現の天才である。そんな三浦が、どのように「おめでとう さようなら」を歌うのか。是非ご自身の耳で、心で味わってほしい。

    さだまさし研究会でさまざまな人と出逢う中で、「風に立つライオン」が持つ力を実感してきた。メンバーの中には、さだが歌うこの曲がきっかけとなって、医療の道に進む決心をした人までいる。今後、三浦のカバーがきっかけでこの曲に出逢った、という人も若者を中心にたくさん出てくるだろう。彼ら彼女の中から、三浦の「風に立つライオン」が入り口となって医療、途上国支援に興味を持つ人が出てくれば、これは三浦、さだ、この曲のモデルとなった柴田医師にとっても、喜ばしいことだろう。三浦の「風に立つライオン」も、さだのそれと同様に、誰かの心を揺さぶり、人生の道標になりうる作品に違いない。

  5. 雨やどり / 福山雅治

    西田聖子(早大さだ研第6代、ピアノ講師)

    銀座のレコーディング・スタジオのビルにある喫茶店で、さだまさしは1枚の絵と出会った。小さな風呂敷包みを抱いたおさげ髪の少女が、赤い鼻緒の切れた下駄を片手に下げて、軒先で雨やどりしている。作者は後に「風の画家」として広く知られる中島潔氏で、この絵にインスパイアされて作られたのが「雨やどり」である。

    福山雅治にとってさだは、同郷長崎出身のシンガーソングライター、ラジオパーソナリティとして大先輩である。またライブを何より大切にしている福山は、コンサート回数が4600回を超えるさだをライブアーティストとしてリスペクトしており、「凄まじいライブ本数を誇る日本一のブルースマン!」と称賛している。

    この曲は、最初に面白おかしく笑わせておいて最後のオチでほろりとさせるという、さだ特有の落語のような手法で作られている。シングルとして発表された音源はライブ録音で、観客の笑い声が多数入っている。一方、福山の歌唱では、「ませませ」「虫歯がキラリン」といったユーモアに富んだ歌詩を原曲そのままに歌いながら、爆笑を誘うのではなく、温かな微笑ましさと、不器用で内気な少女の切ない恋心を感じさせる。

    さだがキャッチーな言葉を様々に使って、笑いでコーティングした物語の本質を、福山は見事に読み取り、主人公の気持ちをストレートに伝えている。表面的にコミカルソングと捉えられがちなこの曲の奥深さと、その核となる部分を感じ取って演じられる福山の鋭い感受性と巧みな表現力を味わえる作品となっている。

  6. 精霊流し / 高橋優

    丸岡由味(早大さだ研第41代、早大人間科学部3年)

    「精霊流し」は主に長崎県において行われる、死者の魂を弔うお盆の伝統行事を題材とした作品である。流れるように美しい旋律と、故人を偲ぶ繊細な心情を表す詩が人々の胸を打ち、1974年にリリースされて以来、名だたるアーティストたちによって歌い継がれてきた。そして今回そのバトンが、力強い歌声で、聴き手に、そして社会にメッセージを伝え続ける“リアルタイム・シンガーソングライター”高橋優の手に渡された。

    アコースティックギターのしめやかなアルペジオと、エレキギターのうねりが絡み合う大胆かつ緻密なアレンジワークは、実際の精霊流しにおいて鳴らされる爆竹の音を表現しているようでもある。中国では魔除けの意味があるとされる爆竹は、精霊船の通る道を清めるために用いられるそうだが、その火花の散る音はまるで故人に対して込み上がる、人々の慟哭の念を表しているようにも思える。本作品で高橋優によって暗闇に打ち放たれた慟哭は、故人に対する愛に溢れ、そして残された者の心を鼓舞するかのように力強く空に鳴り響く。こんなにも優しい慟哭があることを、高橋優のまっすぐな歌声は教えてくれる。

    さだまさしの「精霊流し」と高橋優の「精霊流し」は、哀しみの中にもある種の「体温」を感じさせる点において共通している。原曲においては故人との思い出を慈しむようなやさしい温もりが、そして本作品では迸るような熱情が、それぞれの形で表現されている。古文においては「愛しい」と書いて「かなしい」と読むことがあるが、両者が歌う「精霊流し」はまさに、故人を失った哀しみの根底にある感情が、故人を果てなく愛おしく想う気持ちであることに気づかせてくれるものとなっている。そしてこのような、時に相反する感情を内包する人間の姿を透徹した眼差しで捉え、揺るぎなく歌い上げる高橋の姿からは、現代において時に忘れられがちな人々の“心”を歌い上げる「フォークイズム」の灯火が、今なお燃え続けていることが確かに感じられる。

  7. 主人公 / 折坂悠太

    高木敦史(早大さだ研第21代、小説家)

    原曲は1978年発表のアルバム『私花集(アンソロジィ)』の最後に収録されており、十年後の1988年にシングルカットされています。デビュー40周年時のファン投票で一位を飾ったほか、様々な場面でさだまさしの代表曲として挙がる一曲です。今回の折坂悠太さんによるカバーは、曲に宿る普遍性が丁寧にすくいあげられた、広く人の心に響く作品だと感じました。

    人は誰でも自分の人生においての主人公である。ともすれば当たり前のことで、聞き流す人も多いでしょう。けれど、そんな当たり前の言葉が「わがこと」として響く瞬間があります。自分の選択に自信が持てなくなったときです。人は立ち止まり、誰かに背中をおしてほしくて過去を振り返ります。そのとき思い浮かぶのは、笑い合った家族であるとか、ともに努力した友人であるとか、支えてくれた恋人であるとか……大切な人の姿でしょう。

    「主人公」には「あなたの服の模様さえ覚えてる」という一節があります。覚えているのはその服がその人によく似合っていたからで、似合っていると感じたのは、その人が大切だったからに他なりません。そんな大切な人が今はいない。それすらも自分の選択の結果であるなら、せめてその人に恥じる道は選びたくない。そして「主人公」は、みずからまた歩き始めるのです。

    折坂さんによる今回のカバーは、昔を懐かしむ儚さや優しさの中に、未来への覚悟が垣間見られます。1978年を過ごす人々の「未来」と、2023年を過ごす人々の「未来」では、いろいろなことが違っているでしょう。けれども、1978年の歌が彩りを変えて今の歌となり、今を生きる人の「わがこと」として響くことを期待しています。

  8. 修二会 / 木村カエラ

    高木敦史(早大さだ研第21代、小説家)

    原曲は1993年発表のアルバム『逢ひみての』に収録されています。さだまさしの楽曲群の中でも特に激しさと荘厳さをもった一曲です。今回の木村カエラさんによるカバーは、曲に宿る力に真正面から向き合い、より高みを追求した作品だと感じました。

    この曲は「夢しだれ」「飛梅」とならび、「奈良三部作」の一つとして数えられています。タイトルの「修二会」とは、東大寺で三月(旧暦二月)に開かれる法会のことです。「お水取り」としても知られ、「お水取りが終わると奈良に春が訪れる」と言われるほど、奈良の人々に親しまれています。しかしその本質は、罪を悔過して世の安寧を祈る「懺悔の儀式」です。

    詩を見れば「南無観世音」「五体投地」「達陀」など仏教由来の言葉が多く登場します。一方で、感情を示す言葉はほとんど見られません。同行する「君」についての「その心 ゆらり他所にあり」という一節くらいです。

    寒さの残る東大寺に、人だかりの中を「君」の手をとって訪れる。けれども手は冷たく、目には涙。やがて手が離れ、姿さえもが過去帳に読み上げられる「青衣の女人」のごとく消えてしまう――そして「君」の行方を案じる隙もないままに、主人公は圧倒的な修二会の「行」に魅入られます。声明の分厚い声の重なりに、煌々と燃える大松明の炎。三月の名残雪は、気づけば降り散る火の粉に取って代わられます。「懺悔の儀式」を前に、人は「個」を超えた崇高な場所に導かれるのみです。

    木村カエラさんの落ち着きと昂ぶりを併せ持つ歌唱に加え、特徴的な拍の取り方を踏襲しながらもより激しさを究める演奏は圧巻です。この力強いうねりが皆様の胸を打つことを楽しみにしています。

  9. 新約「償い」 / MOROHA

    小熊麦(早大さだ研第37代、会社員)

    ギョッとした。果たしてラップグループのMOROHAがさだまさしの『償い』をどう歌う(語る)のか、それも「新訳」として完全新曲にしてくるとは。『償い』はもうこれ以上アレンジできないものだと勝手に思い込んでいた。

    MOROHAという二人組をはじめて聞いたという方もいると思うが、実はMOROHAのラッパーであるアフロの声は多くの人が聞いたことあるはずだ。スマートフォンGalaxy S7 edgeやチキンラーメンのテレビCMの声として起用されている。男性でありながらも高く繊細でありながら力強さを感じる声は唯一無二である。

    原曲の『償い』は1982年に発表された楽曲であり、裁判において引用されたことで有名な曲である。ご存知の通り、原曲のサウンドとしては、序盤アコースティックギターによるアルペジオで物語が紡がれ、徐々にピアノやストリングスが入ってくる中で最終的には重厚で荘厳なサウンドとなる。一方、本アルバムに収録されている「新訳『償い』」はMOROHAらしくアコースティックギターによるビートとラップのみで勝負をしてきている。これが計り知れないほど大きな説得力となっている。ギターを担当するUKのパーカッシヴなビートとラッパーであるアフロの熱量溢れるライムとフローであなたは新しい『償い』を発見するに違いない。たしかに全く違う物語、全く違う曲として出来上がっている。しかし、歌詩やコードなど曲のいたるところで原曲のエッセンスを感じることができる。さだファンこそこの曲の深みを十分に感じることができるだろう。新しい曲を聴いているはずなのに、原曲の『償い』が頭の中でリフレインする。ぜひ、原曲の『償い』を感じながら「新訳『償い』」を聴いてほしい。

    時は令和、MOROHAは原曲のエッセンスはそのままに全く新しい物語を紡いでいる。テーマも歌詞も全て入れ替えて新たな解釈を提示している。原曲『償い』のクライマックスには「人間って哀しいねだってみんなやさしい」という歌詩が登場する。鬼気迫るMOROHAのラップを通してこの言葉の新しい物語が胸に迫り、あなたはまたギョッとすること間違いない。

  10. まほろば / T字路s

    高宮玲央(早大さだ研第41代、明治大学文学部3年)

    本作はソロ4作目のオリジナルアルバム『夢供養』に収録された楽曲であり、師の宮﨑康平に「自分を超えた」と言わしめた曲である。ただ、宮﨑は同時に「これ以上難しい曲を作ると聴衆がついてこなくなる」と忠告している。

    本作は言うなれば「さだまさし史上最も難しい曲」であり、加えて万葉的な激情と無常を描いた作品であるため、求められる「声」や演奏のハードルも必然的に上がってしまう。しかし、T字路sはそのハードルも少し穿った見方をしたさだまさしファンの色眼鏡も諸共吹き飛ばしてしまった。

    本作を彼らは見事に自分たちの世界へと落とし込んでいる。さだまさしの描いた万葉的な風景や激情を貫きながらも、この曲の顔とも言えるヴァイオリンのフレーズを大胆に解体したイントロは何とも剛毅朴訥で人間臭い。また、伊東妙子氏の外連味の無い赤心のボーカルは、心の空洞や膏肓まで浸してしまう。聴き終わった後の胸に去来した昂揚感と幾許かの寂寥感に、私はT字路sの虜となったことを実感した。

    そもそも、「まほろば」という言葉の由来となった日本武尊の歌も本作で引かれている磐姫の歌もあけすけでかつ直情的、則ち「ますらをぶり」である。故に本作のような直情的で赤条条とした歌い方はブルースやフォークをルーツとしたT字路sの専売特許ともいえるだろう。

    T字路sは「まほろば」を最早彼ら自身の作品と呼べる位置まで昇華してしまっている。これは断章取義で牽強付会な解釈では到底出来る業ではない。千年以上の時を超えて再構築された万葉人のますらをぶり。黒髪に霜の降るまで、私は暫くヘッドフォンを手放せそうにない。

  11. 北の国から~遙かなる大地より~ / 葉加瀬太郎

    橋口敬子(早大さだ研第24代、ピアノ講師)

    物語性の強い短編映画のような歌詞の作品が多いさだまさしをもってして、「スキャット」で歌いきる名曲。あまりにも有名な国民的ドラマの主題歌としてこの曲が誕生してから42年が経つという。
    さらに、「2002年遺言」で完結してから、20年を超える月日が経ったことに驚く人は多いだろう。

    音楽は記憶と結びつきやすいと言われているがまさにこれは、「遥かなる大地のテーマ」が、テレビに北海道の風景が映るたびに流される、というだけではなく、時代を越えて人々に愛され続ける普遍的なメロディであることを裏づける。

    厳しく美しい大自然と、ときどき、都会の中に生きる人々の、誰もがそれぞれに一生懸命で愛おしいぬくもりを持つ「北の国から」の世界観をたたえた、令和版の新しい作品が生まれるのではないかと、ドラマの思い出とともに想像が膨らんでしまう。(現代の日本を倉本聰はどう描くだろうか!)

    こんなふうに、歌詞のない音楽の持つ、想像に働きかけるパワーをかつてなく感じながら、オリジナルと、葉加瀬太郎バージョンと、果てしなく行ったり来たりしている自分がいた。 演奏をしている楽器の数は明らかに違うなかで、聞けば聞くほど、それぞれの作品の中に共通点を、違いを、新たな意味合いを発見し、面白さが増していく。まさにクラシック音楽を堪能するときの楽しみ方だ。

    今回編曲をした羽毛田丈史は一大センセーションを巻き起こしたコンピレーションアルバム「image」シリーズなどで活躍している音楽家。葉加瀬太郎とタッグを組むことも多く、彼の持つ豊かで深い、自然光の輝きを放つようなバイオリンの魅力を隅々まで堪能できるアレンジとなっており、これまでの葉加瀬太郎の作品もあれこれ聞きたくなってしまう、そんな凝縮した3分42秒となっている。

    さだまさしに対して並々ならぬ思いを持つファンの一人として、畏れ多くも正直、トリビュートアルバムに対して身構える節があったのだが、ただならぬアルバムになることは間違いないと確信。
    こんな化学反応が、あと13曲もあるなんて!

    今さだまさしが好きな人も、昔さだまさしが好きだった人も、夜中にしゃべってるさだまさししか知らない人も、もちろん参加アーティストのファンにも!

    アルバムのタイトルそのままに、みんなで聞き、感想をみんなとシェアし味わいぬくのが今から楽しみでたまらない。

  12. 関白宣言 / wacci

    荒井美紗絵(早大さだ研第37代、会社員)

    さだまさしの楽曲の中で最も有名と言っても過言ではない本曲。有名だからこそ、多くの批判にもさらされてきた。筆者を含む多くのファンはいつも思っている。「最後まで聴いてください!!!」この「最後まで聴いてください!!!」プレイリストを作るとしたら、関白宣言と共に、wacciの「別の人の彼女になったよ」も加えたい。ワンフレーズはおろか、一番を全部聴いてもこれらの曲の真意はわからない。どちらの曲も、最後まで聴いてからもう一度聴くと、一つ一つの言葉の意味が違って聞こえる名曲である。

    「お前を嫁にもらう前に、言っておきたいことがある」。内容は確かに厳しい。しかし、最後まで聴くと不器用な男性の、これから結婚する女性への深くまっすぐな愛が感じられる。発売当初の細身で気弱にも見えるさだが歌う本曲、現在の大らかで包み込むようなそれでいて威厳のあるさだが歌う本曲。wacciの歌う本曲は、その両者とも異なり、ともすればワンフレーズ目からこの曲の真意がわかってしまうかもしれないほど柔らかく、優しい。優しくて、恋人が大好きで大好きで仕方のない男が、少し背伸びをして歌っている今回のカバーには、原曲とは違う微笑ましい魅力がある。少なくとも、浮気の心配はなさそうだ。wacciの楽曲では「僕」や「君」といった表現が多く、彼らは関白のイメージとは少し遠いタイプに思える。今回のカバーは、「俺」や「お前」と歌い上げる勇ましいwacciを垣間見るチャンスかもしれない。

    余談にはなるが、本曲は私をさだまさしの沼に引き摺り込んだ楽曲である。テレビで流れたこの曲に、当時16歳の高校生だった私は心を鷲掴みにされた。この詩は私にとって宮沢賢治の「雨ニモマケズ」である。「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」、この詩に出てくるようなお嫁さんにいつかなりたいと思いながらこの曲を聴き続けて約10年。私は結婚し、現在1年が経ったところだ。朝は夫より早く起きてお弁当を作り、夜はお弁当箱を洗って夫より後に布団に入る。「食事は美味しい?私いつも綺麗?ねぇどう思う?!!??」と問い正すと夫は「はい、とても」と申しており、おそらくまずまずのスタートダッシュだろう。

    どちらが先に逝くかはわからないが、人生の終盤までこの歌のように互いを慈しんで過ごせる夫婦になれるよう、日々奮闘中である。そんな我が家のプレイリストに本曲は欠かせない訳だが、これからはwacciバージョンも加えたい。そうしたら、たまには夫より寝坊をしてお弁当を作り損ねても、自分で自分を許せる気がする。

  13. 防人の詩 / 琴音

    小林龍汰(早大さだ研第41代、同志社大学文学部3年)

    「おしえてください」

    「答えてください」

    真っ向からそう問われたことが何回あるだろう。このあまりにも真に迫る問いかけの文句によって「防人の詩」が記憶に残ったという人も多いと思う。

    さだまさしの歌っている「防人の詩」を聴いてみるとその問いかけは弓の弦を弾いたような彼の声によってより切実に、より悲惨さを帯びて私たちの心に響く。

    鯨魚取り 海や死にする 山や死にする 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ

    まさしの声はまるでこの和歌の主体自身の声のように震える。彼の歌う「防人の詩」は弾けるような烈しさを持っていて、問いかけはより厳しいものに聞こえる。それは叫びと言って良い。それも慟哭に近い叫びだ。渚で声を枯らすまで天に向かって問いかけているような。

    琴音の歌う「防人の詩」にはそうした目の覚めるような烈しさはない。代わりに秋の霧のようなゆっくりとした広がりと湿度がある。声の震えは抑えめで伸びと僅かなかすれがある。彼女の声は煩悶してやるせなく問いかけているというよりも、むしろ公園のベンチに座って考え込んでいるというイメージと強く結びつくだろう。あれこれと考えるうちにどんどんと深いところへと潜っていくような思索。それもある種の叫びだ。静かな、それでいて深い叫び。

    琴音が歌うことによってその叫びはしんしんと私たちの身体に入り込んでくる。まさに秋の霧のように。気付けば私たちは歌詩の世界にいて、苦しみについて考え、海や秋はいずれ死んでしまうのだろうかと思い悩んでいる。それはこの曲の内側について考えるということだ。静かな叫びに耳を澄ました時、この曲の歌詩が、元になった和歌が、問いかけていたことを私たちはもっと深く考えるようになる。それは琴音の歌う「防人の詩」ならではの味わいと言えるだろう。

  14. 虹~ヒーロー~ / MISIA

    瀬戸邦弘(早大さだ研第16代、大学教員)

    そもそもは、さだまさしが1994年に大先輩である雪村いずみのデビュー40周年記念に送った作品である。そのため、原曲「虹〜Singer〜」は女性アーティストが主人公であるが、のちにまさしがタイトルを「虹〜ヒーロー〜」、歌詞を男歌に変更してセルフカバーしており、今回の作品はまさしのトリビュート作品のため男性ボーカリストがその主人公の作品として収録されている。

    「もう十分に頑張ったじゃないか」、歌手だけではなく誰しもが出会う引き際という人生の大きな分岐点。「引退」の二文字を前にするベテラン歌手の心の揺れと達成感、思い出される此れ迄のさまざまな場面、まさに人生の「矜持」を歌った作品である。そのために、この作品には年を重ねた「声」が求められるようにも思えたのだが、MISIAの重厚でいて、尚且つ透き通るような声、そしてその歌唱力はこの作品に充満するノスタルジックな空気と主人公の凛とした佇まいをうまく表現し、それらは高音域で美しく溶け合い、儚く拡がり消えていく。

    また、本作品を聴いて雪村、さだ、MISIA三者の「虹」はそれぞれに個性的だがどこか通底する同じ「色」が存在している事に気づかされる。そして、圧倒的な存在感を放つ先輩二人の後を受けて、それらのしっとりとした「艶」を大切にしながらも、コーラスも含めたどこか明るい色調で彩りながら、本作品を再構成し歌い切るMISIAの凄さを改めて感じることにもなる。

    MISIAの作品への姿勢と主人公への想いがそう感じさせるのか、もともと彼女のために「も」書かれた作品であったかのような錯覚にさえ陥るほど素晴らしい詩と歌い手の出会いである。彼女にとってもある意味「新境地」、MISIAは我々にどんな雨上がりの空をみせてくれるのか。彼女の代表曲のひとつになる予感さえさせる作品である。