INTERVIEW

ANGRA初代担当者に、現・担当者(四代目)が訊く


93年に『エンジェルズ・クライ』で華々しいデビューを飾ったブラジルのANGRA。20年以上のキャリアを経て、間もなく2014年12月17日に通算8作目のスタジオ・アルバム『シークレット・ガーデン』をリリースします。そんなANGRAというバンドを発掘・育成した初代担当A&R(前身とも言えるVIPERも担当!)に、バンドとの出会いやその当時の様子を現・担当者(四代目)が訊きました。何故ANGRAというバンド名にカタカナ表記がないのか、その謎が明らかに…。


四代目(以下、四):まずはどういう経緯でANGRAを発掘したのか教えてください。

初代:ANGRAの話をするときは、まずVIPERというバンドの話をしなければならないんだ。1990年くらいにブラジルのVIPERが日本のメロディック・メタル・ファンの間で話題になっていてね。日本のレコード会社も何社か契約を獲りにいっていて、ビクターもそのひとつだった。ただ、ブラジルということもあってあまり情報が入手できなくて、「誰にコンタクトすりゃいんだ」と。そんなときビクターに話を持ちかけてきてくれたのが、リム・シュヌールっていう昔HELLOWEENのマネージャーをやっていたドイツ人だったんだよ。彼が「俺の会社LMP(Limb Music Products)がVIPERの日本の発売権を獲ったからやらない?」と言ってきてね。それで91年7月にまずはVIPERの2ndアルバム『シアター・オブ・フェイト』の日本盤を出したわけ。でも、そのときにはVIPERの顔だったアンドレ・マトス(vo)は脱退していたんだけど、当時はインターネットもないから日本にはアンドレ脱退の報は入ってこなくて、脱退のことは知らなかった。リムは少なくとも知っていたかもしれないけど、何となく謎になっててね。そうこうしている間に、リムが新しいバンドをビクターに紹介してきた。「実はアンドレはもうVIPERを脱退していて、こういうバンドを結成して、こんな感じのデモテープがある。何か意見があれば教えてくれ」って感じにね。それで僕も「これはこうした方がいいんじゃない?」みたいに何度かサジェスチョンして。そのバンドが、ANGRAだったってわけ。

四:では、ANGRAのデビュー作『エンジェルズ・クライ』の音作りの段階から、初代さんも少なからずアイディアを出していたということですね。

初代:あと、和田(誠)さんね。和田さんとリムは仲が良くてね。だから、和田さんと僕で日本人としての意見を少し出した記憶はある。

四:バンド名のANGRAって、「炎の女神」っていう意味なんですよね?

初代:そう。あとは、確かどこかの地形に関する言葉とのダブル・ミーニングだって、最初リムは言っていた気がする。

四:VIPERも初代さんが担当されていたのですか?

初代:ビクターから出したVIPERの作品は、全部僕が担当したはずだね。1stアルバム『ソルジャーズ・オブ・サンライズ』も、後々カタログとしてリリースしたし。

四:ではVIPERも担当していた初代さんが、最初にANGRAの音を聴いたとき、どう感じましたか?

初代:最初に聴かせてもらったのは、“イーヴル・ウォーニング”っていう曲。クラシックの要素はその当時からすでに盛り込まれていて、わかりやすくて日本で絶対ウケるなと思ったから、悩むこともなくすぐに契約したよ。決してアドバンス(印税前払い金)も高くなかった気がする。

四:え、そうなんですか? ラファエルは、「『エンジェルズ・クライ』の制作費のほとんどを賄えるくらいの高額なアドバンスをビクターは払ってくれた」と語っていましたが。

初代:ということは、制作費自体がかなり安かったってことだね(笑) VIPERの実績を元にした金額だったと思うから、『エンジェルズ・クライ』の成功を考えたら、相当リーズナブルだったはず。

四:ではANGRAは、VIPERと同等かそれ以上の成功は収めるだろうという確信があった、と。

初代:それは間違いなくあった。VIPERは良い意味でB級感が漂っていて、「それが良いんだ」という感じだったんだけど、ANGRAは洗練されていてね。実際ANGRAはギターとか上手いじゃない? 曲もわかりやすかったし。和田さんはもちろんだけど、伊藤(政則)さんや『BURRN!』の大野(奈鷹美)さんも、「これ、人気出るよね」って最初から皆さん思ってくださってた。

四:『エンジェルズ・クライ』は海外と同じ時期に日本もリリースできたのですか?

初代:確か日本先行発売だったと思う。だからアートワーク用のフィルムが送られてこなくて、紙焼き(プリント)を受け取って、それを海外の指示どおりに日本で組み立てたんだよ。その頃は普通5枚くらいのフィルムのセットが届いて、それを印刷してアートワークとするわけだけど、『エンジェルズ・クライ』の場合は日本先行だから、それがまだ完成してなくて。だからその紙焼きは、「使い終わったら送り返してくれ」って事前に言われてね。

四:この『エンジェルズ・クライ』日本盤のアートワークに関しては国内で制作したのですね。それは意外な事実…。

初代:先方の「やりたいこと」と、こちらの「出来ること」に当然差もあったから、確かディスクの印刷はピクチャーレーベル(4色)で、という希望がきていたけれど、最終的に現状の2色になったんだよ。

四:その『エンジェルズ・クライ』は日本でどのくらい売れたのですか?

初代:僕が関わっている時点までで10万枚を超えていたから、最終的にどのくらいまでいったんだろうなあ…。最初はね、VIPERが売れてたってのもあって、イニシャル(初回出荷数)で1万5、6千枚から始まったんだよね。

四:では、CDショップも「あのVIPERのアンドレ・マトスの新バンド」として注目していたということですね。

初代:そう。だから、結果的にはVIPERの『シアター・オブ・フェイト』が、ANGRAにとっての最高の事前プロモーションになったってことだね。いきなり出てきた新人バンドってわけじゃなく、VIPERあってのANGRAだったから。

四:VIPER『シアター・オブ・フェイト』のセールスが最終的に約5万枚で、ANGRAの『エンジェルズ・クライ』が10万枚を超えたということは、その差の5万人以上が「ANGRAスゴイ!」といってファンになったのですね。

初代:でも、『エンジェルズ・クライ』だってリリースして1年とかで10万枚いったわけじゃなくて、「メロディック・スピード・メタルの名盤の1枚」として認識されるようになってから、何年もずっと売れ続けてたんだよね。だから、ゴールドディスク作った(10万枚超えた)のって、リリースから結構経ってからなんだよなあ。

四:メタルのアルバムって、瞬間風速的にリリース直後に売れて、売れ続けることがあまりないですが、ANGRAに関しては違ったと?

初代:もちろん瞬間風速的にも5、6万枚まではいったはずだけど、そのあと10万枚までいったのは何年かかかってるんだよね。それでビクターかLMPのどちらかが10万枚いったことに気づいて、「じゃあ、ゴールドディスク作ろうか」って話になって。

四:未だに洋楽部に飾ってありますよ、そのゴールドディスク。

初代:それまでのゴールドディスクって結構ちゃちい感じだったんだけど、『エンジェルズ・クライ』ではそれをやめてちょっと豪華な造りにしたんだ。93年リリースのこの作品の方が、94年リリースのHELLOWEENの『マスター・オブ・ザ・リングス』よりもゴールドに認定された、つまり10万枚にいったのが後なのよ。『マスター・オブ・ザ・リングス』はまだ古い型でゴールドディスク作ってたから。『エンジェルズ・クライ』は、96年に出たHELLOWEENの『タイム・オブ・ジ・オウス』のプラチナディスク(セールス20万枚認定)と同じ型だから、ゴールド認定は95年とか96年だと思う。あ、でもそう考えたら、リリースから2、3年しか経っていないのか。何かゴールドまで随分時間がかかったイメージなんだけどな(笑)

四:ということは、『エンジェルズ・クライ』のゴールド認定は、ANGRAの2ndアルバム『ホーリー・ランド』がリリースされるかされないかのタイミングってことですね?

初代:あっ、思い出した! 『ホーリー・ランド』でバンドは初めて日本に来て、そのツアーのときにゴールドディスク授与式を日本でやったんだ!叙々苑の游玄亭の個室を借り切って。

四:『ホーリー・ランド』のジャパン・ツアーが1997年1月ですから、やはりゴールド認定まで3年くらいはかかったのですね。

初代:そういうことだね。

四:でも、何故そんなに売れたのに、『エンジェルズ・クライ』のジャパン・ツアーは実現しなかったのですか?

初代:ライヴを観た日本人が誰もいなくてね。リムのところに所属していた別のバンドの初来日で少々痛い目見ていたから。どういうことかと言うと、当時そのバンドもCDが売れていたし、海外で彼らのライヴを観た人もいて特に悪い評判も聞かなかったから大丈夫だと思って日本に呼んだら、そのときのライヴがあまり良くなかったらしくてね。ビクターとしても「もしまたパフォーマンスが悪かったら困る」という判断で、双方「ANGRAに関してはちょっと慎重にいこう」ということになってね。

四:そういう経緯があったのですね。

初代:何せブラジルのバンドだからヨーロッパやアメリカで頻繁にライヴもやっていないし、今みたいにインターネットでライヴ映像を観られる時代じゃないから、どの程度のパフォーマンスをするバンドなのか謎だった。当時ブラジルにもマネージャーがいてね。『ROCK BRIGADE』っていうロック雑誌があって、そこのアントニオ・ピラーニって人がEditora Rock Brigadeっていうマネジメントも兼務してて。

四:確かにビクターの初期の契約先も、そのEditora Rock Brigadeでしたね。

初代:そうそう。で、結局ブラジル以外での活動の仕方もよくわからないから、どこかでリム・シュヌールのLMPと繋がったんだと思う。Editora Rock BrigadeとLMPとの契約が、「ブラジル以外全部任せた」ってなってたのか、「日本とヨーロッパだけよろしく」ってなってたのか分からないけどね。とにかく、少なくとも日本とヨーロッパはリムがハンドリングしていた。

四:海外ではライヴをやっていたんですかね?

初代:どうだろう。ほとんどやっていなかったんじゃないかあ。結局さ、ブラジルから拠点を移さない限り活動の範囲がかなり狭まってしまうわけ。

四:それにしても『エンジェルズ・クライ』でそれだけのセールス的成功を収めて、日本のファンは来日を望み、プロモーターも呼びたがったのではないですか?

初代:日本のプロモーターが呼びたがっても、マネージャーだけで、ブッキング・エージェントもいないし、海外で頻繁にライヴをやっているバンドでもなかったから、「どうやって日本でライヴやらせたらいいの?」って感じでね。謎なバンドってイメージで。

四:今でこそブラジルは、「良質なメタル・バンドが出てくる国」って見られ方をしていますけど、当時はまだSEPULTURAとVIPERくらいしか日本で知られている存在はいなかったですよね?

初代:SEPULTURAはその当時すでに世界的に成功しててね。VIPERはまだローカルの域を脱していなかったから、そういう意味ではSEPULTURAくらいだった感じじゃないかな。

四:ではANGRAはそれに次ぐバンドとして日本人には受け入れられたということですね。

初代:そういうことだね。

四:日本のメディアのバンドに対する反応は?

初代:激しく反応してくださったのは和田さんと『BURRN!』の大野さん、だよね。それに『YOUNG GUITAR』誌も、「キコ(・ルーレイロ:g)、上手くて、ルックスもいいね」って言ってくれてて。彼らとしてはやはり新しいギターヒーローを待ち望んでいたから、ありがたいことに最初から応援モードにはなってたよね。

四:本国ブラジルで評価はどうだったのでしょうか?

初代:最初の頃は日本ほどじゃなかったけれど、ある時期からはちゃんと評価されてるはずよ。キコとルイス(・マリウッティ:b)は、元々フュージョン系のミュージシャンでもあって、そっち方面でも知名度があって、それぞれ教則ビデオなんかもブラジルでリリースしてたのよ。それは日本でも出した。

四:ビクターからですか? それは知りませんでした。

初代:各1本ずつ、合計2本のビデオをね。結構大変だったんだ。どちらもしゃべりはポルトガル語だったので、所謂ラテン・ミュージック系に関わってる通訳さんに翻訳してもらったり、ライターの川合(純行)さんに協力してもらってタブ譜作ったり、かなりな手間がかかったものの、キコのは結構売れたんだよね。

四:ANGRAのファンは、どんなメタル・バンドのファン層と被っていたんですかね?

初代:やっぱりHELLOWEEN、GAMMA RAYのファンとの被りが多かったんじゃないかな。和田さんが、「ブラジルだけどジャーマン・メタル!」という表現をされていたこともあったから。ジャーマン・メタルのようなジャンルが好きな人にとっては、分かり易い表現だったのかもしれない。

四:どういったプロモーションを仕掛けていったのか、覚えてますか?

初代:『エンジェルズ・クライ』のときは、アンドレのクラシック音楽の素養が反映されたアルバムだったから、「クラシックとメタルの華麗なる融合」っていうキャッチコピーで売ってた。短いイントロから続く“キャリー・オン”っていうお約束の展開。これがやっぱり凄いウケてて。このアルバムに関しては、“キャリー・オン”一発で売れたんじゃないかな。

四:“キャリー・オン”を初めて聴いたとき、それがメロディック・メタル史に残る名曲になると思いましたか?

初代:それはね、残ると思った。「これは凄いな。なんか凄いのきちゃったな」と。

四:では、“キャリー・オン”がなかったら10万枚もいっていなかったんじゃないかと?

初代:いってないんじゃないかな。僕はそう思ってるけど。他にも良い曲あったけど、この曲が群を抜いてたんだよね。結局『エンジェルズ・クライ』って、“キャリー・オン”で売れたってことなんじゃないかな。だって、日本に連れてきたわけじゃないから目立った稼働をさせたわけじゃないし、ライヴだって海外でやってるかやってないか分からないときだし。とにかくインターネットのない時代だから。しかも当時にしてみればどういった国かも日本の普通の人にはよくわかっていないブラジル出身だったしね。

四:“キャリー・オン”って、ライヴ映像を編集して作ったミュージックビデオが存在しているんですけど、それは当時作られたものですか?

初代:いや、“キャリー・オン”のビデオはだいぶ後。最初に作られたのは“タイム”だね。

四:現在は、キコとラファエル(・ビッテンコート:g)がリーダーとしてバンドを統率していますが、当時はやはりアンドレが?

初代:そうだね。取材を受けるのも基本アンドレだった。

四:では、ライヴはさせなくとも、『エンジェルズ・クライ』リリース時にアンドレだけプロモ来日させるという案もあったのでは? 「元VIPERのアンドレのバンド」として初回出荷の数字もかなりついたわけですし。

初代:確かにアンドレだけだったら連れてこられたかもしれないね。でもね、「英語は話せるの?」といった言葉の問題もあったのよ、当初は。もしかするとアンドレはすでに問題なかったのかもしれないけれど、そんな心配もあって、デビュー作のときは「中途半端なタイミングでプロモ来日させるくらいだったら、次のアルバムまでとっておこう」ってなってね。昔はね、インターネットが普及するまでは、「露出すればいい」というものでもなく、「露出しないから売れる」っていう面もあったんだよね。

四:それは「謎のバンド」ということで?

初代:そうそう。昔の洋楽は、「露出するときは思い切ってやって、露出しないときは一切何もしない」っていうやり方も出来たんだよ。しばらく何も情報を出さずに、時期をみてイッキに出そうみたいな感じで。

四:なるほど…。ちなみに、ANGRAというアーティスト名にカタカナ表記で「アングラ」とつけなかったのは何故ですか?

初代:カタカナにすると、「アングラ演劇」の「アングラ」にしか思われないだろうな、と思ったから。いわゆる、「アンダーグラウンド」の略の「アングラ」だね。今は「アングラ」って言葉自体使われなくなってきたけど、当時は「アングラ」ってあまりポジティヴなイメージの言葉として思われていなかったんだ。それで「カタカナにしない方がいいかな」と思って、アルファベット表記のままいくことに決めたんだよ。

四:そうだったんですね。長年の謎がようやく解けました…。そして、2ndアルバム『ホーリー・ランド』が発売になります。『エンジェルズ・クライ』が93年11月で、この『ホーリー・ランド』が96年3月。約2年半のギャップは、当時の新人としては少々長い気がするのですが、これは何故ですか?

初代:そんなに空いてたんだ…。どうしてだろう。でも、予定していたスケジュールからズルズルずれた記憶はあるんだよね。本当は95年の秋にリリースする予定だったの。『ホーリー・ランド』の時代には、「ピュア・メタル・クラブ」っていう会員制の組織をビクターで運営していて、「ピュア・メタル・セミナー」というイベントもやっていた。当時はビクターの営業所は東京を入れて全国7ヶ所あって、それら地域で「ピュア・メタル・セミナー」を95年秋のリリース・タイミングでやることになってたのよ。

四:『ホーリー・ランド』のCDについた帯で告知されているイベントですね?

初代:そうそう。「2,000名様ご招待」って書いてあるけど、コレ、見え張った数字でなくて、本当にこの規模でやってたの。東京はいつもキャパ300人くらいの星陵会館で。大阪はもう少し大きな、400人近く入る会場を借りてたね。札幌も地元で人気のあるテレビ番組と一緒にやっていたから、200〜300人入る会場でやっていたんだ。

四:そういった会場がいっぱいに埋まるという…。

初代:うん。それでね、『ホーリー・ランド』の発売日も決まり、会場も7都市で全部抑えて、95年秋の発売日の直後にイベントが開催できる準備が整った段階で、「ゴメン…。アルバムが完成しない…」ってバンドに言われて(苦笑)。全部バラしたのよ。

四:それは大変でしたね…。

初代:『エンジェルズ・クライ』が日本では大ヒットして、ヨーロッパでもそこそこ売れて、「次はどうしようか。何やろうか」っていうプレッシャーはバンドにもあったと思うんだ。

四:日本ではデビュー作でいきなりゴールドディスクを獲得して、初代さん的にも「前作以上に売らなきゃ」という気負いはありましたか?

初代:あったね。『エンジェルズ・クライ』はジワジワと売り伸びていったけど、新作は「頭からドンといかなきゃ」っていう気持ちはあったね。

四:では先程のとおり、バンドもそう感じていたという?

初代:だろうね、明らかに。

四:その努力の甲斐あってか、『ホーリー・ランド』のイニシャルは7万枚弱で、トータル出荷10万枚を超えた時期もあるようです。

初代:そんなにイニシャルついてたの!? 期待値が高かったんだね。凄い時代だな、しかし(笑)

四:マルコ・アントゥネス(ds)が脱退し、リカルド・コンフェッソーリが加入します。このメンバーチェンジは特にバンドにとって悪い方向の影響はなく?

初代:うん、特に。当時はアンドレとキコとラファエルがいれば、っていうのはあった。

四:ミュージックビデオは“メイク・ビリーヴ”で作られましたが、このアルバムにおけるリード・トラックはどの曲でしたか?

初代:日本では“ナッシング・トゥ・セイ”がリードだった。彼らの場合、ドイツ人のリムの意向もあってか、いわゆるド直球のメタル・チューンでなく、海外の普通のテレビ番組でかかりやすい曲でミュージックビデオを作ってくるのよ。

四:だから、“キャリー・オン”ではなく“タイム”だったりしたわけですね。

初代:結局それにニーズがあったかどうかは分からないけれど、「メタルっぽい曲のビデオじゃ、普通のテレビでかからない」ってリムが言ってたのは覚えてる。

四:先程の「ピュア・メタル・セミナー」ですが、具体的にはどういった内容だったのでしょうか?

初代:アンドレとキコを呼んだね。演奏はなかったと思う。確か「2人だけじゃできない」って言われて。このイベントって、いつも前半はビクターのメタル・アーティストのビデオを数本お客さんに観てもらって、後半がゲストパートだったんだ。東京は伊藤さんに、大阪は和田さんに司会をお願いする感じで。札幌と仙台、広島は和田さんで、仙台は伊藤さん。福岡はタイミングによってお二人のどちらかにお願いしてたと思うな。

四:初代さんは、アンドレとキコに会ったのはこのときが初めてですか?

初代:そう。大人しい、真面目な人たち。サンバを踊るいわゆるステレオタイプのブラジル人とはまったく別な感じ。アンドレは時にはビーストになることが後々わかるんだけど(笑)、キコは本当に大人しかったね。「2人とも静かだなー」って。アンドレはね、頭すごい良いなってのはすぐわかった。英語もちゃんとしてたし。キコはまだ英語がちょっと怪しかったけど、アンドレが助ける感じで。アンドレは短期間の滞在で、挨拶程度の日本語をマスターしていたよ。耳がよかったんだろうね。

四:夜飲み歩いたりすることもなく?

初代:そういうのはなかったね。広島では、一緒に原爆ドーム見に行ったな。

四:97年1月の初来日はどのくらいの規模だったのでしょうか?

初代:東京は赤坂BLITZと新宿リキッドルームだね。

四:セールスや人気に比べると少々規模が小さいように思えますが。

初代:だからチケットも即ソールドアウトだったと思う。

四:お客さんの反応はどうでしたか?

初代:曲を覚えてきて、バンドと一緒に歌っていた記憶がある。やっぱり『エンジェルズ・クライ』の曲の方が浸透してたけど、『ホーリー・ランド』の曲も“ナッシング・トゥ・セイ”とかは盛り上がってたね。

四:初ジャパン・ツアー時の面白いエピソードはありますか?

初代:東京のリキッドルーム公演では、アンコールの前か何かのときに舞台袖にいたら、メンバーに担ぎ上げられてそのままステージの真ん中まで連れて行かれて、床に落とされるというイタズラに遭った(笑) ただ、お客さんにも何の説明もなくただ落とすだけ(笑) あれは本当に謎だった。

四:何がしたかったんでしょうね(笑) 誰と誰がつるんでて、みたいなメンバー間の関係は?

初代:うーん、特にそういうのはなく、みんな万遍なく仲良かったような…。とにかく大人しい人たちで、手を焼いた記憶がないから、悪い意味じゃなくてあまり印象に残っていないんだよね。それだけ真面目な青年たちだった。

四:そうですか、分かりました。そして98年8月に、3作目『ファイアワークス』をリリースします。前2作との違いは何ですか?

初代:音楽的方向性は前作『ホーリー・ランド』と同じ。でもこのアルバムって、大物のクリス・タンガリーデスがロンドンでプロデュースしていて、そういう意味では向上していたと思う。『Abbey Road Studios』使ったりしてね。

四:伊藤さんと和田さんのダブル・ライナーノーツですね。それだけ期待値が高かった証拠でしょうか?

初代:そうだね。伊藤さんにはロンドンのスタジオまで行ってもらって、クリスと一緒にミックスをしていたアンドレに取材してもらったりもしたしね。

四:発売から4か月後の98年12月には二度目の来日を果たしています。この来日でのエピソードは何かありますか?

初代:大阪から名古屋への移動日に、メンバーと一緒に清水寺に寄った記憶がある。あと思い出したんだけど、最初のプロモ来日の時に名古屋の街並みを見て、アンドレが「他のどこよりもサンパウロに似た雰囲気がある」と語っていたな。

四:そして、00年8月にアンドレ、ルイス、リカルドが脱退し、バンドは活動停止を余儀なくされます。

初代:何年か後にアンドレが日本に来た時に聞いた脱退の理由は、ツアーで世界をまわるのに疲れたとかだったかと思うな。正確には覚えていないんだけど。

四:その後、01年にバンドはエドゥ・ファラスキ(vo)、フェリッペ・アンドレオーリ(b)、アキレス・プリースター(ds)という新たなメンバーを迎え、4thアルバム『リバース』で見事に復活を遂げるわけですが、初代さんはこのタイミングまで「ANGRA担当」だったのでしょうか?

初代:いや、そこからは二代目の担当者だね。

四:通算8作目の新作『シークレット・ガーデン』が12月17日に発売になります。音を聴かれた感じ、いかがですか?

初代:すごい聴き易いし、良い曲も多くて、とても良いアルバムだと思います。

四:ファビオ・リオーネを迎えて制作された作品ですが、RHAPSODYをご担当をされていたことは?

初代:そのときはもう僕は現場じゃなかったから別の人が担当していたけど、RHAPSODYもリム・シュヌール経由で契約したバンドでね。リムもANGRAに続くバンドとして日本でのヒットを狙っていたから、だいぶ力が入っていた。だから早い段階からデモが送られてきて、ANGRAのときみたいに色々意見を聞かれてね。それをどの程度反映させたかは分からないけれど、結果的には「これ間違いなく売れるね」っていうアルバムが出来てきたからね。リムの嗅覚恐るべし、といったところだね。

四:初代さんの名前も、未だに新作のサンクスリストにあります。担当者としては嬉しいものですよね?

初代:そうだねえ。でもそれ以上に大変だったなあ(笑) 何せ当時のブラジルだから連絡がまともに取れないんだよ(笑) アートワークのパーツとかはブラジルで作っててさ。ドイツのリムもそこまでは関わってなくて。そうなると、パーツの到着を待ってたりする急ぎの案件だと、直接ブラジルのマネージャーのアントニオに電話するしかないわけよ。電話もさ、繋がらないんだよ。今はそんなことないんだろうけど、回線が途中で落ちちゃって。電話つながらない、FAXもなかなか送信できない。メールなんてない時代だからね、当時とにかくマネージャーをつかまえて連絡とるのすら大変。返事もなかなかこないし。

四:FAXも電話回線を使いますからね(笑)

初代:でもメンバーは真面目で良い人だったから、頼んだことは全部ちゃんとやってくれたけどね。『ホーリー・ランド』のとき、アンドレとキコの2人でプロモ来日させたときは色々やったしね。そのとき、『YOUNG GUITAR』がまだ初代編集長の山本(隆士)さんの時代に、編集部で居酒屋抑えてくれて、キコを囲んで飲みましょうって(笑)

四:え? それはファンを集めての企画ではなく?

初代:違う違う、関係者だけ。編集部の人たちがキコと飲みたかったみたい(笑) でも、それだけ応援してくれていたんだよね。

四:そうでしたか。キコとラファエルは2015年1月号の表紙も飾りますし、ANGRAと『YOUNG GUITAR』誌はそれからの長い関係ということなのですね。

初代:そうだね、そうなるね。「ルックスがよくて上手くて、ブラジルにこんなギタリストいたんだ」って当時から盛り上がってくれてね。

四:ANGRAは初代さんが発掘から育成まで担当したバンドです。初代さんにとってANGRAとは?

初代:『エンジェルズ・クライ』が凄い勢いで売れたから、「このバンド、ひょっとするとQUEENみたいにならないかな」って思ったの。QUEENって最初に日本で盛り上がったバンドじゃない? ANGRAもそれなりにルックスよかったし、クラシックの要素も入っていたから、「第二のQUEENにならないかな」って。そんな夢を見させてくれたバンドかな。



<あとがき>

HELLOWEENの『ストレイト・アウト・オブ・ヘル』リリース時にも同様の企画をやって思ったのですが、「ピュア・メタル・セミナー」の規模には本当に驚かされます。今の時代、ライヴですら札幌や仙台、広島、福岡をバンドが訪れる機会があまりなくなっているというのに、乱暴に言ってしまえば普通のイベントに各地数百人が集まっていたなんて…。ANGRAも、初代担当者さんを含む日本人スタッフや媒体の方々、そしてメンバーやリム・シュヌール氏が一丸となって盛り上げ、その時代に日本で確固たる地位と人気を築いたバンドであるから、未だに多くのファンに支え、愛され続けているのかな、と思います。もちろん、初期からバンドを応援し続けて下さっているファンの皆さんや、最近ファンになった方々、色々なファンの方のサポートがなければ、今も昔も何も出来てはいなかったでしょう。いつも本当にありがとうございます。
なお、初代担当者さんは現在、木村カエラ、柴咲コウ、家入レオ、Cyntia、LIV MOON、LAST MAY JAGUARらが所属するビクター内のColourful Recordsの長を務め、2012年のLIV MOONのアルバム『THE END OF THE BEGINNING』では、ANGRAのキコに曲作りと客演で協力を仰ぎ、キコもこれを快諾。今なお、その良好な関係は続いているようです。

『エンジェルズ・クライ』のゴールドディスク

デビュー時にLMPが作ったプレスキット(表紙)

デビュー時にLMPが作ったプレスキット(メンバープロフィール)

デビュー時にLMPが作ったプレスキット(バイオグラフィー)

<ANGRA「SECRET GARDEN」2014年12月17日発売!!>

 ANGRA
 タイトル: SECRET GARDEN(シークレット・ガーデン)
 発売日: 2014年12月17日(水)日本先行リリース
 品番: 限定盤:VIZP-132 / 通常盤:VICP-65276
 価格: 限定盤:¥3,500+税 / 通常盤:¥2,500+税

備考:
●ラファエル・ビッテンコートによる本作のストーリー解説&ライナーノート掲載
●リミテッド・エディション(5,000セット生産限定)は3大特典付き!
☆LOUD PARK 13でのライヴをフル収録したCD『LIVE AT LOUD PARK 13』同梱
☆高音質SHM-CD(※本編CD『SECRET GARDEN』のみ)
☆豪華特殊パッケージ仕様

<収録曲リスト>
『シークレット・ガーデン』
1. ニューボーン・ミー/Newborn Me
2. ブラック・ハーティド・ソウル/Black Hearted Soul
3. ファイナル・ライト/Final Light
4. ストーム・オブ・エモーションズ/Storm Of Emotions
5. ヴァイオレット・スカイ/Violet Sky
6. シークレット・ガーデン/Secret Garden
7. アッパー・レヴェルズ/Upper Levels
8. クラッシング・ルーム/Crushing Room
9. パーフェクト・シンメトリー/Perfect Symmetry
10. サイレント・コール/Silent Call

『ライヴ・アット・ラウドパーク13』(※リミテッド・エディションにのみ付属)
1. エンジェルズ・クライ/Angels Cry
2. ナッシング・トゥ・セイ/Nothing To Say
3. ウェイティング・サイレンス/Waiting Silence
4. タイム/Time
5. リスボン/Lisbon
6. ウィンズ・オブ・デスティネイション/Winds Of Destination
7. ジェントル・チェンジ/Gentile Change
8. アンフィニッシュド・アレグロ/Unfinished Allegro
9. キャリー・オン/Carry On
10. リバース/Rebirth
11. ノヴァ・エラ/Nova Era

http://www.jvcmusic.co.jp/-/Artist/A006979.html

【ANGRA ジャパン・ツアー2015】

8年振りのジャパン・ツアー!

2015/5/18(月) 大阪BIGCAT (OPEN 18:30 / START 19:30)
2015/5/19(火) 名古屋CLUB QUATTRO (OPEN 18:00 / START 19:00)
2015/5/20(水) 東京 Shibuya TSUTAYA O-East (OPEN 18:00 / START 19:00)
5/21(木) 東京 Shibuya TSUTAYA O-East (OPEN 18:00 / START 19:00)

TOTAL INFO: クリエイティブマン(TEL:03-3499-6669)
http://www.creativeman.co.jp/artist/2015/05angra/