宮城 まり子
スター☆デラックス

宮城まり子
ガード下の靴みがき~ねむの木の詩
解説:高橋正人
本名:本目真理子。1927年(昭和2年)東京・蒲田生まれ。幼少時に大阪、九州に居住。終戦後、弟(後の作編曲家の宮城秀雄)と九州を巡業していたが、1948年(昭和23年)上京、浅草の舞台に立つ。翌年の11月、益田喜頓の紹介で日劇のレビュー「有頂天時代」の主役に、暁テル子、池真理子らにまじって抜擢される。翌50年(昭和25年)1月には「ラジオは踊る」、2月には「アメリカン・ラプソディー」、3月は「スイング・クリスタル」と毎月のように日劇の舞台で素晴らしい活躍を見せる一方、レコード歌手としては、テイチク、ポリドールと数曲録音したもののヒットには恵まれず、1951年(昭和26年)にビクターに移籍。しかし、舞台で声を使いすぎたのか、録音のチャンスはなかなかめぐってこなかった(昭和26年3月の日劇「娯楽超特急」の新聞批評で「宮城まり子の声にいつもの伸びがない」と書かれている)。
彼女がその試練を超えて、ビクターでレコーディングしたのは翌52年(昭和27年)のこと。やがて「東京やんちゃ娘」「毒消しゃいらんかね」など彼女の明朗活発なキャラクターを活かした曲がヒットとなり、人気歌手に。「ガード下の靴みがき」がメガヒットとなったころは、映画、ラジオ、テレビ、舞台に引っ張りだこで、しかも作家達の創作欲を刺激したのだろう、意欲作、野心作が次々と誕生。1958年(昭和33年)「十二月のあいつ」で、ついに芸術祭賞(大衆芸能部門)に輝いた。
しかし、彼女のキャリアは、ここにとどまらない。数々のミュージカルで活躍していたころ、自らの強い念願であった日本初の肢体不自由児養護施設「ねむの木学園」を1968年(昭和43年)に設立。以来、女優・歌手としての華々しい活動のすべてを捨てて、その存続と子供達のために歩み続けて45年になろうとしている。彼女の持つ、やさしさ、人間愛が結実した「ねむの木学園」の活動に心からの賛辞を贈るとともに、宮城まり子が残した宝石のようにきらきら輝く歌の数々を、もう一度現代に甦らせることは、とても意義のあることだと思っている。