PROFILE プロフィール

𠮷田 正(作曲家)

戦後日本の歌謡界を代表する作曲家。

1950年~1970年頃(昭和30年代)𠮷田門下生…三浦洸一、鶴田浩二、フランク永井、松尾和子、和田弘とマヒナスターズ…が歌う楽曲は、“都会調歌謡”や“ムード歌謡”と呼ばれ、日本の高度経済成長を背景に、発展し洗練していく都会の風俗を歌で表現、歌謡界に新しい流れを拓き、若手の𠮷田門下生…橋幸夫、吉永小百合、三田明、久保浩、古都清乃…が歌う楽曲は、“青春歌謡”、“学園ソング”、“リズム歌謡”、“股旅もの”などと言われ、𠮷田メロディの幅の広さを印象付けた。

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1943年(昭和23年)8月に、シベリア抑留から復員。

戦中、満州陸軍病院にて作った楽曲「昨日も今日も」は、日本に帰国した復員者が“作者不明”曲としてNHKラジオ(素人のど自慢)で歌い、国民に深い感動を与えていた。

同年9月にビクターの専属作家:佐伯孝夫による補作詞で「異国の丘」というタイトルとして発売され大ヒットとなり、NHKによる作者探しにより、11月に𠮷田正作曲と認定された。翌年1944年(昭和24年)4月、佐伯孝夫の紹介でビクター専属作曲家となる。

生涯で2,400曲あまり(歌謡曲1,800曲あまり、校歌等600曲あまり)を創作し、ビクターが表彰する「ヒット賞」(年間5万枚以上売れた作品)の受賞数は、206曲にも達した。

1960年(昭和35年)に「誰よりも君を愛す」、1962年(昭和37年)に「いつでも夢を」で2度の日本レコード大賞を受賞した。

後年は、作曲活動の傍ら日本音楽著作権協会、日本作曲家協会等、音楽関連団体の重役を務め、音楽業界の発展、音楽家の地位向上等に尽力した。

逝去ののち、約50年間の作曲家としての功績に対し、「国民に夢と希望と潤いを与えた」として、国民栄誉賞が授与された。

「𠮷田メロディ」は、オリジナル曲のみならず、森進一、原由子、山内惠介他、多数のアーティストによって歌い継がれ演奏され、時代を超えて今も多くの人々に親しまれている。

■𠮷田正 略歴
1921年(大正10年)1月20日 茨城県多賀郡 高鈴村(現:茨城県日立市)に誕生
1942年(昭和17年)1月 水戸歩兵第二連隊に入隊
1945年(昭和20年)10月 ソ連邦シベリア地区に抑留
1948年(昭和23年)8月 舞鶴港に復員、同年9月「異国の丘」発売
1949年(昭和24年)4月 日本ビクター株式会社に専属作曲家として入社
1960年(昭和35年)12月 日本レコード大賞「誰よりも君を愛す」
1962年(昭和37年)12月 日本レコード大賞「いつでも夢を」
1989年(平成元年)10月 一般社団法人 日本音楽著作権協会会長就任
1992年(平成4年)4月 勲三等旭日中綬章授章
1993年(平成5年)5月 公益社団法人 日本作曲家協会会長就任
1998年(平成10年)6月10日 逝去 (享年77歳)、従四位叙位
7月 国民栄誉賞受賞
2004年(平成16年)4月 「𠮷田正音楽記念館」設立(日立市かみね公園)

■代表楽曲
1950年代 鶴田浩二「街のサンドイッチマン」、三浦洸一「落葉しぐれ」
フランク永井「夜霧の第二国道」、「有楽町で逢いましょう」

1960年代 橋幸夫「潮来笠」、松尾和子・マヒナスターズ「誰よりも君を愛す」
橋幸夫「江梨子」、吉永小百合「寒い朝」、
橋幸夫・吉永小百合「いつでも夢を」、三田明「美しい十代」
橋幸夫「恋をするなら」「CHE CHE CHE」「あの娘と僕」「恋のメキシカン・ロック」

1970年代 鶴田浩二「傷だらけの人生」、橋幸夫「子連れ狼」
フランク永井「お前に」

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