新居昭乃 ロングインタビュー

デビュー30周年。この長い月日のなかで彼女はどう音楽と向き合い、
そして音楽家としての自己を構築していったのか。
新居昭乃の音楽人生を振り返る、ロング・インタビュー!

01/03「喫茶アキノワール」について

interviewer
いよいよアルバム『リトルピアノ・プラス』もリリースされて、
本サイト「喫茶アキノワール」のコンテンツもすっかり充実しましたね。
akino
私のデビュー30周年をみなさんからお祝いしてもらえる場として、
すごくいいサイトになっているとおもいます!
interviewer
7月から始まったお祝いコメントも出揃い、数々の印象的な言葉もありました。
akino
妖精って「業」だったんですね? 私、妖精業を営んでいたんですね(笑)。
interviewer
菅野よう子さんのコメントですね(笑)。本当に、皆さんの言葉それぞれに個性があって、ASA-CHANGさんの「新居さんは、尊い。」とか、田中真知さんの「途方も無い遠さの感覚」とか、昭乃さんを言い表す素敵なフレーズをたくさん見られて楽しいです。
akino
皆さん本当に愛を持って書いてくださって、ほんとうに有難かったです。これは私の自慢です。母に見せてあげたいです。

02/0380年代末から90年代

interviewer
さて、本インタビューでは30周年を記念して、昭乃さんの音楽人生を振り返っていきたいと思うのですが、まずはアルバム『懐かしい未来』(1986年)や『そらの庭』(1997年)をリリースした80年代末から90年代にかけて、自分はどんな音楽家であったと思いますか?
akino
無意識からのスタートでした。音楽家とは言えなかったです。
自分がやりたい音楽って?って意識したのが『懐かしい未来』のレコーディング中、という……。
その1年後に、このまま(アーティスト活動を)続けるかどうか、という選択をすることになるんですけど、その時はじめて「歌はうたいたい」って自覚した程度でした。
デビュー前に母から「あなたは歌が一番好きなのよ」って言われてもピンと来てなかったりしたんですけど、やっと。
interviewer
当時は、どのような活動がメインだったのですか?
akino
レコーディングやツアーの、コーラスの仕事が多かったです。
アニメやゲームの音楽とか、童謡やCMもたくさん歌わせてもらっていました。
毎日夢中で歌って、「ああ、今日もいっぱい歌がうたえて幸せ」ってスキップしながら家に帰るような日々でした。
interviewer
そのなかで、シンガーソングライターとしての仕事はどのように生まれていったのでしょうか?
akino
「ぼくの地球を守って」っていう漫画に出てくる槐(えんじゅ)というキャラクターの、イメージソングを作ったのがきっかけです。
その頃は曲が作れなくなっていたし、鍵盤を見るのもイヤな位だったけど、その作品がすごく面白くて、ピアノが置いてある小さなスタジオに出かけて行って、そうしたらすぐに「Moon Light Anthem」(1988年)という曲ができたんですね。
それがきっかけで自然とまた曲を作って歌うっていうところに戻ることができて、たまたま仕事につながって行ったという感じです。
interviewer
シンガーソングライターとしての自己を再構築していった?
akino
門倉聡さんや萩田光雄さんのアレンジのおかげもあって、音楽の方向性みたいなものが少しずつ明確になっていった気がします。
「美しい星」や「Adesso e Fortuna」を見出してくれた金子プロデューサーが「これからは僕たちの時代になるよ」って言ってくれて、「あぁ、こういう音楽を作っててもいいなんて、すごく嬉しいな。」って自覚しました。そして菅野よう子ちゃんが現れて、「あなたこういうの歌ったら?」って、ググッと引っ張ってくれて、妖精業界に入った次第です(笑)。
interviewer
自分だけの音楽性というものに出会ったんですね。
akino
はい。よう子ちゃんが作曲した「金色の時 流れて」(1993年/OVA『ぼくの地球を守って』テーマソング)っていう曲を歌わせてもらう時、そのデモ音源をはじめて聞いてガーンとなりました。どこの国とも知れない、日常とはまったく違う風景が浮かび上がるような音楽で、これがわたしのやりたいことだ!って。もともと自分の中にあったけど、どうやって表現していいかわからなかった世界を表現する方法を、教えてもらった瞬間ですね。
interviewer
それが、「妖精業」のはじまりだったというわけですね(笑)。
akino
そうですね。そして保刈くんが一緒にやってくれるようになって、他にもたくさん人との出会いがあって、今の私の音楽があると思います。
interviewer
ちなみに、先ほど曲が書けなかったとおっしゃっていましたが、それはなぜですか?
akino
デビュー当時のディレクターから「こういう曲を書いて」と言われたりすることに対して、気持ちが大変な拒絶をしてしまって。
無意識なりにも「そういうのじゃない」っていうことだけは、はっきりしていたんですよね(苦笑)。
逆に私が書いた曲に対しては「そういうのじゃない」って言われ続けていたので、それで曲が書けなくなってしまいました。
interviewer
なるほど、それがあって職業シンガーの道に進んだんですね。
akino
職業シンガーというほどプロフェッショナルな歌を歌うという感じでは、もちろんないんですけど、歌うことだけは大好きだったので。

03/032000年代

interviewer
では2000年代に入ってから。アルバム『降るプラチナ』(2000年)や『エデン』(2004年)を制作する頃には、昭乃さんの活動状況はどうなっていたのでしょうか?
akino
その前の『空の森』と『そらの庭』は、それまでに個人的に作っていた曲や、携わった作品を集めたベスト盤のようなアルバムだったんですけど、『降るプラチナ』が、「アルバムを作りましょう」と意識して作った初めての作品でした。
interviewer
本サイトの「本日の一枚」コーナーでは、保刈久明さんをはじめとする今に繋がるチームが出来上がっていったと述懐されています。
akino
はじめて保刈くんが全面プロデュースしてくれたのが「降るプラチナ」で、そこに参加してくれたエンジニアの松林正志さん、(細海)魚くんや堀越信泰さん、佐野康夫さん、渡辺等さんは、今でもずっと一緒にやってもらっています。
ライブのほうでも、その前まではVJとして関わってくれていた小川くんが、プロデューサーとして演出まで考えてくれるようになって、今の体制の基礎ができた感じです。
interviewer
続く『エデン』については心の中の一定のスペースを描いた「パーソナルな音楽」だったと書かれていましたが、それはどういうことだったのでしょう?
akino
降るプラチナ』で始めてニューヨークマスタリングを経験したすぐあとに9.11(2001年/アメリカ同時多発テロ事件)があって、『エデン』はそのショックを引きずったまま作ったんですね。小さい頃からずっと自分の中に、あるスペースがあって、そこから世界を見て歌を歌っていた気がするんですけど、そこに引きこもるような感覚で、でも、それでも世界は美しいと信じたいという気持ちで、作ったアルバムです。
interviewer
9.11が、昭乃さんの音楽に影響を与えたんですね。
akino
すごく影響ありました。その少し前からスピリチュアルなことが一般的になりつつあったり、地球規模で人類がひとつになる日も近いと思わせてくれるような本がベストセラーになったり……
わくわくしていたところにあんなことがあって。
interviewer
言われてみれば世紀末から2000年にかけては、
日本の音楽界にもトリップ系のシーンがありました。
akino
私には世界がそういうふうに動いて行っているように見えてたんですね。
interviewer
一方で、同じく「本日の一枚」で「ソラノスフィア」(2009年)を「オープンな音楽」だったと振り返っていらっしゃいますね。
akino
失望があって、気持ちが一度閉じたからこそ、身近な人たちとの繋がりを大切にしようと改めて思うことができて。音楽も人に向けたものになって行った気がします。
interviewer
2009年といえば9.11から派生したイラク戦争もアフガニスタン紛争も泥沼化していて、世界中がナーバスになっていた時期。そんななか、昭乃さんの心がほぐれていったのはなぜなのでしょう?
akino
音楽だけは誰も私から奪うことはできない、と思えたことが大きかったのかなと思います。

後編へつづく