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BUCK-TICK 2022-23 | DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEARBUCK-TICK 2022 DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR Special Site

BUCK-TICK 2022-23
DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR

HISTORY

1987-1991

01

1987年9月21日、群馬県で結成した5人組ロックバンド、BUCK-TICKがライヴビデオ「バクチク現象 at THE LIVE INN」でメジャーデビューした。メンバーは櫻井敦司(Vo)、今井寿(G)、星野英彦(G)、樋口豊(B)、ヤガミ・トール(Dr)。シングルではなくビデオ作品という当時でも異例のデビュー作と、髪の毛を逆立てた目を引くヴィジュアルで注目を集めたが、新しいものに敏感なバンド好き、音楽好きの間では、その前からすでに一目置かれる存在だった。

1984年、スターリンのコピーバンドとして始まった前身バンドを経て、同年夏にBUCK-TICKと改名。1985年春に星野、樋口が高校を卒業したことを機に、本格的に東京進出に乗り出した。8月に東京・新宿JAMで初の東京ライブデビューを果たしたが、3カ月後の11月にBUCK-TICKが企画した新宿JAMでのイベントライブ“BEAT FOR BEAT FOR BEAT vol.1”で前ヴォーカルが脱退する。それまでドラマーだった櫻井がヴォーカルを志願し、実弟の樋口に半ば強引に上京させられたヤガミが加入。12月の“BEAT FOR BEAT FOR BEAT vol.2”で、現メンバーでの初ライヴが行なわれた。このメンバーチェンジによってバンド内は転換期を迎えたが思うように客足は伸びず、観客は1組のカップルのみという日もあった。翌年に入り、活動を広げるためには音源が必要だと考えたメンバーは、自主制作のレコード作成のため、ヤガミの伝手を頼りYAMAHA日吉センタースタジオでレコーディングを始めた。ほぼ一発録りで仕上げたBUCK-TICKの1st音源はシングル「TO - SEACH /PLASTIC SYNDROME Ⅱ」。後に渋谷屋根裏の公演を観に来たインディーズレーベル・太陽レコードの社長と出会い、10月に太陽レコードから「TO-SEACH /PLASTIC SYNDROME TYPE Ⅱ」をリリースすることになる。

1987年、無謀だという声も多い中、“4月1日 豊島公会堂 バクチク現象”と書いたステッカーを作成し、東京の街中に貼って回るという奇策を敢行した。4月1日、インディーズアルバム『HURRY UP MODE』をリリース。今作はアナログ盤と同時に、2曲追加した形でCD盤も作成。当時のインディーズシーンにおいて、この『HURRY UP MODE』は初のCD作品となった。そして同日、豊島公会堂で“バクチク現象”を開催。ステッカー作戦が功を奏したのか、前売りでは400枚ほどしか売れていなかったチケットが、当日に400枚売れ、800名を動員。この画期的な現象を目の当たりにして、音楽業界が放っておくわけがなかった。

すでにBUCK-TICKにアプローチしているレコード会社は何社もあった。この豊島公会堂公演を見て、「これは絶対にやろう」と心に決めたのはビクターエンタテインメントのディレクター、田中淳一氏。彼は1986年9月に行なわれた“太陽祭”に、他のバンド目当てで新宿LOFTを訪れたのだが、対バン相手だったBUCK-TICKを観て圧倒されてしまった。「当時観たバンドの中でダントツに下手だったBUCK-TICKに、誰よりも惹かれてしまった」と、インパクトの強かった第一印象について後に語っている。彼は豊島公会堂公演直後から太陽レコードにコンタクトを取り、猛アタックの末に想いは実を結んだ。BUCK-TICKと契約を交わしたのは、6月16日“BUCK-TICK現象II at LIVE INN”公演でメジャーデビューを発表した2日後のことだった。

1970年代後半にシンセサイザーやリズムマシン、シーケンサーが普及し、1982年に市販用のCDが登場。そして1984年に初代Macintoshが発売された。彼らが音楽に目覚め、初期衝動のままに邁進していた80年代は、アナログからデジタルへと移行する過渡期であり、現在もなお進化し続けているデジタル社会の黎明期でもあった。BUCK-TICKの持つ世界観はいつもどこか“少し未来”で、テクノやパンク、ニューウェーヴなどをルーツにしたサウンドは、ロマンティシズムとエロティシズムが漂うハードポップ。美しさと過激さを併せ持つヴィジュアル。新しい時代にフィットする存在だった。ビクターは彼らを“ヴィジュアル・アーティスト”として売り出すことに決め、ビクター・インビテーションより、1987年9月21日ライヴビデオ「バクチク現象 at THE LIVE INN」でメジャーデビュー。BUCK-TICKが所属するインビテーションにはLÄ-PPISCHやUP-BEATら同世代のロックバンドが所属しており、MVやライヴ映像を上映するショーケース的な無料ビデオコンサート“Capitagon”も評判を呼んだ。

02

最初の2年でシングルではなくアルバムを3枚出そう、というのは田中氏の提案だった。“イメージチェンジしないこと/メンバー5人変わらないこと/プロデューサーをつけないこと/すべて自分たちで演奏すること”。BUCK-TICKから出されたメジャー契約する上での条件に基づき、メジャー1stアルバム『SEXUAL×××××!』は、スタジオミュージシャンやプロデューサーを起用することなく制作された。11月21日に発売されると、オリコンチャート最高位33位を記録し、新人バンドの1stアルバムとしては期待値の高い結果だったが、その評価は芳しくなかった。『HURRY UP MODE』では会心のバンドだと持ち上げられたが、メジャーにいった途端に「魂を売った」とか「下手だ」の手の平返し。1年でいなくなると評されたこともあったと、当時を振り返ったメンバーの弁。しかし、そんなことを気にしていられないほどのハードスケジュールに追われるようになる。

年が明けるとすぐにメンバーはミニアルバム『ROMANESQUE』の制作に取り掛かった。デビュー前のデモテープ用に録っていた「SEXUAL×××××!」「MOON LIGHT」「ROMANESQUE」の3曲の中で、1stには入らなかったが評判のよかった「ROMANESQUE」を形にしたかったためだ。収録曲の「HEARTS」は、彼らをモデルにした少女漫画にちなんで生まれた楽曲で、漫画に出てくるバンド名“BLUCK-TLICK”名義で1月24日に新宿LOFTでシークレットライヴも行なった。

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1stアルバムと、この『ROMANESQUE』で、当時持っていた曲をすべて出し切ってしまっていたため、2月から制作に入る予定になっていた『SEVENTH HEAVEN』の制作スケジュールが大変なことになってしまった。この短い期間に新曲を作らなければならない。しかし、スケジュールはキャンペーンで埋まっている。故に、それまではほぼ一発録りだったのだが、『SEVENTH HEAVEN』のレコーディングを機に、リズム隊が一緒に録った後にギターを入れていくという、いわゆるオーソドックスなレコーディングのパターンに変わった。今作にはSOFT BALLETの森岡賢氏がキーボードで参加した。『SEVENTH HEAVEN』の作品性を引き上げるのに、彼の功績は大きかった。6月21日にリリースするやいなや、オリコンチャート初登場3位、最高位2位という好記録を叩き出した。

この頃、来るもの拒まずの仕事スタイルで撮影や取材が相次ぎ、2時間髪を立てることに費やすならその時間を睡眠に使いたいと、髪を立てたまま眠るような日々を送っていた。たとえば『SEVENTH HEAVEN』のジャケット撮影の日は、朝の6時から雑誌の撮影が始まり、夜の7時から翌朝の5時までジャケット撮影を行なっていた、といった調子。そんな状態の中で迎えたのがアルバム『TABOO』の初ロンドンレコーディング。イギリスの音楽に多大な影響を受けていた彼らにとっては喜ばしい出来事で、しっかりと準備をしていきたいところだったと思うが、忙しすぎてデモテープをちゃんと作ることが出来ず、ロンドンに着くなりプロデューサーのオーウェン・ポールに叱られてしまった。オーウェン・ポールや、エンジニアのウィル・ゴスリングから受けたスパルタレコーディングは、ドラムのサウンドメイクや、スタジオフロアではなくミキシングルームの卓前で弾いて録るギターやベースの録音スタイルなど、その後のBUCK-TICKのレコーディングスタイルに大きな影響を及ぼした。また、9月21日にはロンドンのライヴハウス・THE GREYHOUNDのステージにも立ち、貴重な経験を積んで帰国。その後すぐにスタートした“SEVENTH HEAVEN”ツアーは、一気に本数が増え、会場もホールが多くなった。そのため、“どう聴かせるかではなく、どう見せるかが大事”だと考えたメンバーは、このツアーからステージにひな壇を起用し、遠くからでもメンバー全員が見えるようにと、現在に通じるステージの配置が確立した。

ツアー中にリリースされたメジャー初のシングル「JUST ONE MORE KISS」は、ビクターのCDラジカセ“CDian”のテレビCMに起用され大ヒット。メンバー自身も出演し、「重低音がバクチクする。」というキャッチコピーと共に話題を集めた。その実績が認められ、その年の「第30回日本レコード大賞」で新人賞を受賞。この年はBUCK-TICKがお茶の間に広く知れ渡った年だった。

05

1989年1月18日、満を持してアルバム『TABOO』がリリースされた。ポップでキャッチーな前2作と打って変わり、ダークかつ硬質なサウンドで構築された今作は、メジャー・アーティストの作品の中で異彩を放っていたが、初のオリコンチャート1位を獲得。名実共にトップ・アーティストへと駆け上った。その翌日には「SEVENTH HEAVEN」ツアーのファイナル公演として、初の日本武道館公演2daysが開催された。1日目はアルバム『SEVENTH HEAVEN』の楽曲を中心に、2日目はリリースされたばかりの『TABOO』を中心としたセットリストが組まれた。この2日目のステージの模様を収録した2本組ライヴビデオ「Sabbat 【Ⅰ】/【Ⅱ】」が4月にリリースされたのだが、1日目のステージが髪の毛を逆立てた櫻井の姿が見られた最後のステージだったことも印象深い。

そして3月22日、東京・立川市民会館を皮切りに“TABOO”ツアーがスタートした。各地で確かな手応えを感じつつ、充実したツアーを回っていたメンバーだったが、今井が起こした事件によりツアーは中止。突然空いてしまったスケジュールに最初は動揺していたものの、それまでの過密スケジュールであまり向き合うことが出来なかった音楽やバンドと、改めて向き合うことが出来たと、後にメンバーが語っている。何度もミーティングを重ねていくうちに、新しいアルバムが作りたいという欲求が生まれた。取材、撮影、他の仕事も何も入らないこの期間は、制作に集中できた。7月に行なった共同記者会見でメンバーは、「BUCK-TICKはこの5人のメンバーでこそBUCK-TICKであり、他の誰にも代わりは務まらない」と宣言し、結束の固さを見せつけた。

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活動休止後、メンバーが揃って初めて鳴らしたのは「JUST ONE MORE KISS」だった。そして、ニューアルバムのレコーディングがスタートした。『TABOO』でエンジニアを務めたウィル・ゴスリングをロンドンから迎え、『TABOO』からもう一歩踏み込んだダークで退廃的な作品に仕上げた。タイトルは『惡の華』。謹慎中に読んでいたシャルル・ボードレールの詩集のタイトルから取ったタイトルだったが、状況ゆえに「反省していないと思われないか?」と危惧する声もあがった。また、この時期は今井の負担を軽減しようと考えたメンバーが意欲的に作詞に取り組んだ時期で、星野作詞の「PLEASURE LAND」や、ヤガミ作詞の「DIZZY MOON」を収録。また、アルバムには入らなかったが、樋口が作詞した「UNDER THE MOON LIGHT」は先行シングル「惡の華」のカップリングとなった。

復活ライヴとして12月29日東京ドーム公演が大々的に告知されたが、その9日前に彼らの地元である群馬音楽センターで、復活第一弾ライヴ「バクチク現象」が開催された。事件後、全国で最初に彼らに会場を借してくれたのが、この群馬音楽センターだったのだそうだ。そのおかげで他県の会場も借りられるようになっていったのだと言う。そしてメジャーデビューからわずか2年3カ月、12月29日に「バクチク現象 TOKYO DOME」と題したBUCK-TICK初の東京ドーム公演を開催。約43,000人を動員。イチからやり直す思いで幕開けにはメジャー1stアルバムのタイトル曲「SEXUAL×××××!」をセレクト。この12月29日は、BUCK-TICKにとってメモリアルな日になった。

1980年代ラストの年に、華々しい復活劇を見せたBUCK-TICKは、その勢いに乗ったまま新しい年に突入した。1月24日リリースしたシングル「惡の華」、2月1日リリースのアルバム『惡の華』、共にオリコンチャート初登場1位を獲得。さらに4月1日にリリースしたアルバム全曲ビデオクリップ集「惡の華」もビデオチャート1位となり、「惡の華」で三冠を獲得。不動の人気を世に知らしめた。その人気の高さや話題性から、彼らが過去に出したインディーズ作品はプレミアがつき、高値で売買されるようになったことから、『HURRY UP MODE』をリミックスし、2月8日に『HURRY UP MODE(1990MIX)』をリリースした。

そして3月から念願の全国ツアー“惡の華”がスタート。止まっていた時間を取り戻すように、“TABOO”ツアーで中止になってしまったところを優先的に巡り、約4カ月にわたるツアーは大盛況のうちに終了。8月に開催した西武ライオンズ球場(現ベルーナドーム)と、大阪駅西コンテナヤードの2カ所で初の単独野外コンサート“A Midsummer Night's Dream”では、ダイナミックなステージとパワフルなパフォーマンスで圧巻。事実上“惡の華”ツアーの集大成となった。ライヴを重ねるごとに動員は増え、12月に開催した“5 FOR JAPANESE BABIES”ツアーは体育館規模の大きな会場が増えた。このツアー辺りから、ようやく余裕が出来てツアーを楽しめるようになった。ツアーの先々でお酒を飲むようになったのもこのツアーからだと言う。各地を席巻したBUCK-TICK酒豪伝説は、このツアーから始まったと言える。

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『TABOO』『惡の華』の2作でBUCK-TICKが目指すサウンドの方向性や、ダークな世界観を確立しつつあったが、サウンドメイクにおいてメンバーはまだまだ模索している状態だった。その様子を見た田中氏は、9月からスタートしたニューアルバムの制作に、レコーディングエンジニアとして比留間整氏を招き入れた。彼との出会いにより、BUCK-TICKのサウンドは劇的に変化を遂げた。今井の頭の中で鳴っている音像が、リアルに具現化されていく感覚。一曲一曲スタジオに入ってから、頭の中にあるイメージに近づけていく作業を行なっているうちに、トータル800時間が今作のレコーディングに費やされた。タイトルの『狂った太陽』は、カミュの小説「異邦人」と自分自身とを重ね合わせた櫻井が付けた。まだどこかアイドル的な見方をされがちだったBUCK-TICKが、この『狂った太陽』で音楽的に高く評価された。もちろん、大きく変化したのはサウンドだけではなかった。それまで、今井と分けるようにしてアルバム中、約半数ぐらいの楽曲の作詞をすることが多かった櫻井だったが、今作では11曲中10曲を手掛けた。そこには内側を震わすようなリアルな言葉が綴られていた。

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1991年1月21日に先行シングル「スピード」が、2月21日にアルバム『狂った太陽』がリリースされる頃、アルバム制作秘話を語ったインタビューが音楽雑誌各誌を賑わせた。そこで語られていたのは、“惡の華”ツアーの最中に櫻井の母親が亡くなったということ。悲しみを表に出すことなく回ったツアーはほぼ記憶がなく、ツアー後はひどい虚脱感に襲われたこと。収録曲の「JUPITER」と「さくら」は母親の死を思い、綴った。そうした私的な部分を詞にして作品にすることで、忘れることはないだろうと、当時語っていた。「JUPITER」はシングルとしてリカットされ、初の星野作曲によるシングルとなった。さらに、櫻井が出演する日本ビクターのCDラジオカセットレコーダー「CDioss」のCMソングとして起用され、美しいメロディと胸を打つ懺悔の歌詞は、新しいBUCK-TICK像を印象づけるものとなった。この『狂った太陽』のタイミングで、櫻井は“桜井”から本名の“櫻井”に表記を統一した。金字塔『狂った太陽』を完成させたBUCK-TICKは、大きな転換期を迎えたのである。

Text:大窪由香

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