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BUCK-TICK 2022-23 | DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEARBUCK-TICK 2022-23 DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR Special Site

BUCK-TICK 2022-23
DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR

HISTORY

1997-2001

01

バブル景気は1991年に終焉したが、日本の音楽業界はそれと入れ替わるように音楽バブル時代に突入。ミリオン、ダブルミリオンをセールスした楽曲がヒットチャートを賑わし、再びバンドにも注目が集まるようになった。音楽雑誌や音楽番組をきっかけに“ヴィジュアル系”という言葉が世の中に定着したのも、1990年代後半のことだ。BUCK-TICKがヴィジュアル系に属するかどうかという論争は、現在に至るまで幾度となく沸き起こってきたが、デビュー35周年を迎えた2022年、音楽雑誌のインタビューでヤガミ・トールが「ヴィジュアル・アーティストとしてデビューしたが、“ヴィジュアル系”ではない」と断言したことにより終結したと言える。しかしながらBUCK-TICKのヴィジュアルや音楽性が、ヴィジュアル系アーティスト達に大きな影響を及ぼしたことは確かなことだ。

一時は生死を彷徨った櫻井の体調も無事に回復したため、延期したツアーのタイトルを“CHAOS After dark TOUR”から“BUCK-TICK TOUR’97 RED ROOM 2097”と変更し、1997年3月の名古屋公演より7会場10公演のツアーを行なった。ツアーに入る前にマーキュリー・ミュージック・エンタテインメントへの移籍を決めた彼らは、メジャーデビュー10周年を迎えるこの年、新たな転機を迎えた。『COSMOS』の楽曲を軸にこの10年を振り返るようなセットリストや、ツアーファイナルの大阪公演で久々に見せた櫻井の髪を立てた姿から、集まったオーディエンスも心機一転の気概を感じ取ったことだろう。

02

レコード会社の移籍による新しい環境の中で、メンバーは夏から新作のレコーディングに入った。今回はリズム録りに入る時点でほぼ曲が上がっていたという。その全曲にループやシーケンサーが入っていたため、デジタルと生音とのバランスやマッチングが肝となった。アルバム『COSMOS』で共同プロデューサーとして参加した奈良敏博(ex.サンハウス、シーナ&ロケッツ)をリズム・プロデューサーとして迎え、マニピュレーターの横山和俊も加わり、山中湖のスタジオで約2週間のリズム録り合宿に入った。制作の楽しさは環境の変化への不安を上回り、レコーディングの合間にゲームや釣りを楽しむメンバーもいたが、その一方で生みの苦しみに悩むメンバーもいた。その頃櫻井は仮歌録りに悩みながら、手応えを掴もうと暗中模索していた。大病により生死の境を体感した櫻井は、リアルをそのまま表現するのではなく、“音楽というファンタジーなものにしたい”と考えた。そうして完成したアルバムは、今井の中にあった“流線型”というイメージから浮かんだ“STREAM LINER”に、スラングで“最新系”という意味をもつ“SEXY”を合わせ、『SEXY STREAM LINER』と名付けられた。1997年11月12日に移籍第一弾シングル「ヒロイン」を、12月10日にアルバム『SEXY STREAM LINER』をリリース。12月26日・27日には全国ツアーの前哨戦となる“SEXTREAM LINER零型(type0)”を日本武道館で開催した。

ケミカル・ブラザーズの「ブロック・ロッキン・ビーツ」や、ダフト・パンクの「アラウンド・ザ・ワールド」といったエレクトロニックミュージックが全英シングルチャートを賑わせた1997年。
テクノやドラムンベース、トランスといったダンスミュージックをロックに落とし込み、デジタルと生音とのバランスを突き詰めた『SEXY STREAM LINER』は、BUCK-TICK史上最大の異色作とも評された。

03

1998年3月には初の12センチCDでのリカットシングル「囁き」と、予約限定EP盤「LTD」をリリース。両盤には、PIGのレイモンド・ワッツ、KMFDMのギュンター・シュルツ、ラヴ・アンド・ロケッツ(ex.バウハウス)のダニエル・アッシュによる『SEXY STREAM LINER』収録曲のリミックスも収められた。

前年に行なった“SEXTREAM LINER零型(type0)”公演の余韻をエネルギーに1998年2月からスタートした“TOUR SEXTREAM LINER”が、BUCK-TICK史における伝説的公演の一つになったのは、5月9日・日本武道館で開催したツアーファイナル公演のことだ。オープニングの「ヒロイン」から何事もなく進んでいたにも関わらず、6曲目の「Tight Rope」に入る直前に今井のギター機材にトラブルが発生。音がピタリと止まってしまった。焦燥感が走る中、櫻井が「みんなの人生に幸あれ!」と叫ぶと、「COSMOS」をアカペラで歌い始めたのだ。当日のメニューには入っていなかった曲だ。やがて観客も巻き込んで大合唱となり、大きな感動を生んだ。この日本武道館公演の模様は8月12日にリリースした初のライヴアルバム『SWEET STRANGE LIVE DISC』と、ライヴビデオ「SWEET STRANGE LIVE FILM」に収録された。「SWEET STRANGE LIVE FILM」は『SEXY STREAM LINER』の世界観に特化するべく、アルバム収録楽曲部分のみを収録する予定だったが、この「COSMOS」のシーンと、このツアーのアンコールラストで先行披露されていた「月世界」(5月13日リリース)も収められた。

04

ツアー後、しばしの休暇と制作活動に入る。
その間に櫻井が10月21日にリリースされた土屋昌巳のアルバム『森の人 Forest People』収録の、「真夏の夜の森」「小さな森の人」の作詞とヴォーカルとして参加している。

05

約1年近い沈黙を経て、1999年7月14日にシングル「BRAN-NEW LOVER」をリリース。今作は今井作曲によるポップチューン。この曲で初めてシンセドラムを導入した。そしてこの年はもう一枚、マキシシングル「ミウ」(10月20日)をリリースしている。「ミウ」は星野作曲によるアコースティックを前面に押し出したミディアムナンバー。この「BRAN-NEW LOVER」と「ミウ」はどちらも聴きやすさ、分かりやすさを意識して作られた。

BUCK-TICKが久しぶりに観客の前に姿を見せたのは、8月7日・8日に富士急ハイランド コニファーフォレストで開催された、マリリン・マンソン主催の野外フェス“BEAUTIFUL MONSTERS TOUR 1999”(BUCK-TICKは8日に出演)だった。当時は日本におけるロック・フェスティバルの黎明期。1997年に“FUJI ROCK FESTIVAL”が初開催され、洋楽ファンと邦楽ファンが一堂に会して音楽を楽しむという、今では当たり前になっている光景が、まだまだぎこちない時代だった。この“BEAUTIFUL MONSTERS TOUR 1999”は、翌年からスタートした“SUMMER SONIC”の前身となったロックイベント。マリリン・マンソン、ワイルドハーツ、ワン・ミニッツ・サイレンスというロック界の猛者たちが後に控える中、BUCK-TICKは1曲目に1998年に急逝したhideのトリビュートアルバム『hide TRIBUTE SPIRITS』(1999年5月リリース)に収録した「DOUBT‘99」をセレクト。焼けつくような真夏の太陽の下、「タナトス」や「MY FUCKIN' VALENTINE」など全10曲独自の世界観で圧倒した。その6日後には、今井がavex groupeのイベント“Cutt Your Edge Tour‘99”でZilch(hideがレイ・マクヴェイ、ポール・レイヴンと結成したバンド)のステージに2曲参加するというサプライズもあった。

海外アーティストとの接点が増えたこの年の8月、イギリスのインダストリアルロックバンド、PIGとのジョイントツアー“Energy Void TOUR”に先駆け、ヤガミの誕生日でもある8月19日に、この年唯一の単独公演“NO TITLE”を東京・赤坂BLITZで開催した。アンドロギュヌスをイメージして櫻井が描いた絵を元に、この日のために創られたオブジェが禍々しいインパクトを放ち、カオティックな空間を創り上げた。本編ラストでは「BRAN-NEW LOVER」をライヴで初演奏。そして23日のZepp Tokyoを皮切りにPIGと大阪・札幌・福岡と4カ所を巡る“Energy Void TOUR”がスタートした。PIGの轟音轟くハードかつラウドなステージに触発されたように、BUCK-TICKもタイトでありながらテンションの高いステージを披露。この刺激的な邂逅は、後にスーパーユニット結成へと発展していく。

06

2000年に入ると、BUCK-TICKはBMGファンハウス(現アリオラジャパン)に籍を移した。9月6日に移籍第一弾シングル「GLAMOROUS」をリリース。キャッチーで浮遊感のあるポップなサウンドと、メロディアスなヴォーカル、華美過ぎず限りなく素に近いようなヴィジュアルと演出を施したMVが新鮮な印象を与えた。

12

提供:(株)ソニー・ミュージックレーベルズ

オリジナルアルバムとしては3年ぶりの『ONE LIFE, ONE DEATH』(9月20日リリース)に向けた制作は、3月から始まっていた。これまで、その時々の創作の新鮮さや瞬発力を重視して作曲活動を行なっていた今井が、思い浮かんだメロディをレコーダーに録っておくという新しいアプローチで挑んだのが今作である。その中で生まれた「GLAMOROUS」は、イントロのギターリフから曲の最後まで、何かを付け足したり削ったりすることなく一気に完成させた。その感覚を突き詰めていきたいというシンプルな発想から、アルバム『ONE LIFE, ONE DEATH』は制作された。今作がメロディアスなものに向かったのは、「GLAMOROUS」をヒントに発展させたからだという。星野の楽曲は、「ミウ」(1999年)からの流れを汲む、よりメロディが浮き立つようなシンプルなものになり、櫻井が綴る言葉や声はより肉感的になった。一方、「ミウ」制作の頃からスランプに陥っていたヤガミは、今作の制作でようやく抜け出せたと語っていた。それについて樋口は「(リリースの)タームが空きすぎたというのが大きかった」と振り返った。

『ONE LIFE, ONE DEATH』の骨太なバンドサウンドは、リリース翌日からスタートしたホールツアー“PHANTOM TOUR”と、ライヴハウスをメインにした“OTHER PHANTOM TOUR”、そして東名阪の“TOUR ONE LIFE, ONE DEATH”の3本のツアーで体現された。最終日の12月29日日本武道館公演は初めて360度座席を開放し、バックスタンドも観客が埋め尽くした。この模様は2枚組ライヴCD『ONE LIFE, ONE DEATH CUT UP』と、同タイトルのBUCK-TICK初のDVD作品として2001年3月28日にリリースされた。また、“OTHER PHANTOM TOUR”で、今井の誕生日である10月21日にFC限定ライヴが渋谷公会堂で開催されたことも、ファンにとって大きなトピックだろう。

2001年5月、櫻井と今井、PIGのレイモンド・ワッツ、KMFDMのサシャ・コニエツコによるスーパーユニット、SCHWEIN(シュヴァイン)が始動した。その経緯は、1994年に始動した今井と藤井麻輝のユニット、SCHAFTのアルバムにレイモンドが参加したところから始まった。その後、1998年1月にリリースしたPIGの日本限定アルバム『ノー・ワン・ゲッツ・アウト・オブ・ハー・アライヴ』に櫻井と今井が参加し、1999年のBUCK-TICKとPIGのジョイントツアーに繋がった。そこで通わせた血をより濃厚なものにすべく、ドイツのインダストリアルバンド・KMFDMのサシャ・コニエツコを迎え、4人でSCHWEINを結成。彼らとのレコーディングは、櫻井と今井にとって大きな刺激になった。レイモンドとサシャがスタジオに持ってきた楽曲に、その場で歌メロや歌詞をつけていく。「その場でどんどん変わっていく進め方は、BUCK-TICKのやり方では太刀打ちできなかった」と、当時を振り返り櫻井が語っていた。しかし、言葉の壁も乗り越え、ゼロから一緒に作品を作り上げる楽しさで、最初から最後まで高いテンションを保ったまま進行したという。完成したアルバム『SCHWEINSTEIN』(5月9日リリース)を携え、6月1日神奈川・横浜BAY HALLを皮切りに7会場8公演の“SCHWEIN FEST JAPAN TOUR 2001”を開催(サシャ・コニエツコは不参加)。9月5日にリリースしたリミックスアルバム『SON OF SCHWEINSTEIN』には、ケン・イシイや、チャーリー・クロウザー(ex.Nine Inch Nails)らが参加した。

SCHWEINのツアーを終え、2001年最初のBUCK-TICKでの活動は韓国のロックフェス“Soyo Rock Festival”への出演だった。社会情勢の影響で一度は中止になったイベントだったが、現地のファンからの熱いリクエストにより依頼を受けたBUCK-TICKは出演を決定。韓国での初のパフォーマンスに気合十分で向かったものの、当日は生憎の大雨。そんなコンディションの中、「惡の華」や「ICONOCLASM」など全8曲を全身全霊のパフォーマンスで届けた。

20世紀から21世紀へ、年明けには“Happy New Century”という言葉も飛び交い、希望に満ちていた2001年に暗い影を落としたのは、9月11日にニューヨークで発生したアメリカ同時多発テロ事件だった。この事件をきっかけにアフガニスタン侵攻やイラク戦争が勃発。大きく変動した世界情勢に衝撃を受けたアーティストは数多い。BUCK-TICKも次作に向けてスタジオに入っている最中だった。11月21日にリリースしたシングル「21st Cherry Boy」は、楽曲自体は事件に影響を受けた内容ではなかったが、元々「21st Cherry Bomb」と付けていたタイトルを、爆発物を連想させる“Bomb”を避け、「21st Cherry Boy」に変更した。

次作のレコーディングを終えたBUCK-TICKは、12月29日に2001年唯一の単独公演“THE DAY IN QUESTION”を日本武道館で開催した。アルバムツアーとは違ってセットリストに縛りがなく、新旧のナンバーが入り混じったメニューで構成したこの公演が好評を博したため、この年以降“12月29日の日本武道館”が恒例化され、“THE DAY IN QUESTION”はファンにとって特別な公演となった。

Text:大窪由香

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