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BUCK-TICK 2022-23 | DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEARBUCK-TICK 2022-23 DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR Special Site

BUCK-TICK 2022-23
DEBUT 35TH ANNIVERSARY YEAR

HISTORY

1992-1996

世界の動きを見てみると、1991年イギリスではジーザス・ジョーンズの『ダウト』が世界的に大ヒットし、プライマル・スクリームが『スクリーマデリカ』を、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインが『ラヴレス』をリリース。アメリカでは、ニルヴァーナがリリースした『ネバーマインド』が全米アルバムチャート1位を獲得して以降グランジに注目が集まり、さらにその流れはレッド・ホット・チリ・ペッパーズやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらのミクスチャー・ロックや、1992年にブレイクしたナイン・インチ・ネイルズ、ミニストリーらのインダストリアル・ロックにも波及した。ニルヴァーナが『イン・ユーテロ』、パール・ジャムが『Vs.』をリリースした1993年はグランジ全盛期と言える。その頃イギリスではストレートなギター・ロックが再び注目を浴び、ブラーの『モダン・ライフ・イズ・ラビッシュ』やスウェードの『スウェード』といったブリットポップムーブメントを代表する作品が生まれた。1990年代初頭は世界的に音楽シーンが大きく変動した時代だった。時を同じくしてBUCK-TICKも音楽的ターニングポイントを迎えたのである。

アルバム制作において『狂った太陽』(91年)はターニングポイントであると後にBUCK-TICKメンバーが位置付けているが、現在のサウンド作りに通じる具体的な変化とは何だったのだろうか。──それは、レコーディングエンジニア比留間整氏とのやり取りを通して今井寿の中に生まれた、“音源とライヴを切り離す”という意識改革だった。それまではエフェクティブなサウンドや新しい技巧を取り入れようとするも、ライヴで再現できるかどうかを考えて躊躇することが多かったが、『狂った太陽』では意識の解放の結果、脳内のサウンドにより近い音を具現化することができた。それをさらに進化させたのが、1992年3月にリリースしたセルフカヴァーアルバム『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』だ。

01

1991年6月に“狂った太陽”ツアーを終えたメンバーは、次作に向けたミーティングに入る。1992年はメジャーデビュー5周年を迎える年。“ベストアルバムを”という案もあれば、新作を作りたいという意見もあった。その年の終盤は東名阪ツアー“CLUB QUATTRO BUCK-TICK”で、久しぶりのライヴハウス公演を開催することが決まっている。新作を作るには時間が足りない。『狂った太陽』で生まれた“この5人ならではのグルーヴ”を感じ取っていた今井は、その感覚を手放したくはなかった。既成の曲でベストアルバムを出すよりも、今の自分たちの演奏で録り直したい。その思いが、当時の邦楽ロックでは珍しいセルフカヴァーアルバムへと向かわせた。後に今井はその制作のきっかけについて、昔はどうしてこんなにも出来なかったのかという「恨みを晴らすのが一番の目的だった」と語っている。

意識の改革とともに、レコーディング方法も変化した。それまでメンバーでスタジオに入り、意見を出し合いながら作り上げていたが、今作では今井も星野もリアレンジを施した状態のデモテープを作成し、スタジオに持ち込んだ。そのデモテープをもとに、各パートのレコーディングが始まるという流れだ。ギターはこれまで以上にエフェクターを多用し、ギター・シンセやエレクトリック・シタールを使用するなど音色も多彩だ。デモテープ作りに凝れば凝るほど制作は後ろ倒しになっていく。スタジオが1つ増え、2つ増え、ギター・ダビングが終わる前に歌録りをすることも。結果、新作を作るのとほとんど変わらない時間と労力が費やされた。しかし、『狂った太陽』で得た感覚を、このカヴァーアルバムの制作で確固たるものにしたメンバーのモチベーションは高かった。当初新作を出したいと主張していた櫻井も、今作のレコーディングを終えて「力を抜いて挑むことができた。楽曲と自分が密着できたような感覚があって、何かわかりかけたような気がする」と、手応えを実感していた。

この全曲セルフカヴァーによるアルバム『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』は、リスナーにとっても大きな衝撃だった。デビュー当時は下手くそだなどと評されていたバンドが、わずか5年で目覚ましい進化を遂げ、既存曲を見事にブラッシュアップしてみせた。BUCK-TICKというバンドの特異性を裏付ける作品になった。タイトルの“殺シノ調ベ”は、インディーズ時代にリリースした1stアルバム『HURRY UP MODE』につけられていたサブタイトル。“This is NOT Greatest Hits”には、ベストでもグレイテストでもないという意を込めた。当初、組み込む予定にしていなかった『狂った太陽』の楽曲までを含む“ベストアルバムを出したい”という案は、レコード会社によるものだったということがそこから推測できる。そんな人を食ったようなタイトルも、ファン心をくすぐった。

02

3月から5月まで3カ月にわたり行なった“殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits Tour”を終え、久しぶりに長めのオフを取ったメンバーだったが、意識はすでにある構想に向かっていた。それは『狂った太陽』『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』の世界観を最大限に表現するためのビデオシューティングライヴ、9月10日・11日に開催した横浜アリーナでの“Climax Together”だ。“よりライヴらしいライヴを観せ、聴かせたい”という思いをテーマに掲げ、オフ期間中に何度もミーティングを重ねていった。オーバル型の横浜アリーナを横使いにしたダイナミックなステージや、フロアのセンターに設置された大きなクレーンカメラも画期的だった。ビデオシューティングのためのライヴというもの自体、そこにいる誰もが初体験。会場には大きな期待が広がる。「オープニングからインパクトを与えたい」という櫻井の要望から、紗幕越しにシルエットのままで「JUPITER」を1コーラス演奏するという印象的なオープニングが生まれた。さらに、床下からのアングルや、腕の血管までも撮ってほしいというアイデアも取り入れた斬新で多彩なカメラワークは、ステージの圧倒的な臨場感をそのまま収録した。その「Climax Together」は、12月にVHSでリリースされ、伝説的なライヴの記録として後続のバンドに大きな影響を与えた。

03

時代はバブル崩壊に揺れ、バンドブームが衰退していった頃である。破竹の勢いで突き進むBUCK-TICKとって、不穏な世情などどこ吹く風であった。

04

1993年2月、ニューアルバムのレコーディングが始まった。音楽的に高い評価を得た『狂った太陽』『殺シノ調ベ This is NOT Greatest Hits』での、音を詰め込む緻密なサウンドメイクに既に飽きていた今井が目指したのは、かつてない“ロック・アルバム”だった。ヤガミのドラムによるグルーヴに、樋口のメロディアスなベース、ディストーションを駆使した今井のヘヴィーでノイジーなギターサウンドが、新鮮なアンサンブルを生み出した。一方、星野も新しい試みとしてキーボードを取り入れた。先行シングルとして5月21日にリリースしたシングル「ドレス」は、星野がキーボードで作曲をし、レコーディングでも自ら演奏をした。櫻井もまた、これまでとは違うアプローチで歌詞を書いたと言う。それまでは歌いたいテーマや言葉を楽曲に当てはめていたが、今作では用意した言葉ではなく、それぞれの楽曲が引き出す言葉を綴った。そのため、わかりやすく、よりリアルな言葉が並んだ。そんなニューアルバムを“闇よりも暗く”、『darker than darkness -style 93-』と名付けた。

全10曲と発表されていた今作には、面白い仕掛けがあった。実は75トラック目と84トラック目にノイズ音が収録されており、93トラック目には隠しトラックとして「D・T・D」が収録された。この隠しトラック「D・T・D」は、5月20日からスタートした全国ツアーの1曲目に披露されたのだが、制作の遅延によりアルバムの発売が一カ月後の6月23日になってしまったことにより、謎の新曲として注目を集めた。ライヴツアー“darker than darkness -style 93-”は、5月から11月まで全国50カ所59公演のロングランツアー。このツアーでは、櫻井がサックスを、星野がキーボードをプレーするという、今までにない新鮮なシーンも見られた。10月21日にリリースしたリカットシングル「die」のカップリングには、大宮ソニックシティ公演の「darker than darkness(live)」と「die(live)」を収録した。そしてもう一つ、このツアーについて特筆するならば、かねがねMCの必要性に疑問を抱いていた櫻井のMCが、このツアーから極端に少なくなったということだろう。

05

12月31日、BUCK-TICKは渋谷公会堂で開催されたテレビ神奈川主催のイベント“TVK LIVE GAGA SPECIAL'93”に出演。この模様は生中継で放送された。アンコールでSOFT BALLETと「ICONOCLASM」をセッション。この共演は、1994年の活動を示唆するものとなった。

1994年の年明けから、メンバーは長期のオフに入った。海外へ旅行に出る者もいれば、自宅でのんびり過ごす者もいた。その合間に櫻井と星野はDer Zibetのボーカリスト、ISSAYのソロアルバム『Flowers』収録の「恋のハレルヤ」に櫻井はコーラスで、星野はギターで参加。ヤガミは2月に仲野茂(亜無亜危異)や元De-LAXの榊原秀樹らとのセッションライヴに参加、樋口も5月に仲野と新宿LOFTで共演した。そして今井は、1991年に藤井麻輝(SOFT BALLET)と結成したユニット・SCHAFTを本格始動。1stアルバム『SWITCHBLADE』(9月リリース)の制作に入った。今作にはボーカルにPIGのレイモンド・ワッツ、ベースとドラムにはTHE MAD CAPSULE MARKETSのTAKESHI UEDAとMOTOKATSUを迎えた。

BUCK-TICKとしてのリリースは、8月のリミックス・アルバム『シェイプレス』のみ。今作は、“アンビエントでリミックスをやってみよう”というアイデアから生まれた作品。エイフェックス・ツインやオウテカら海外のアーティストにリミックスを託し、選曲も彼らに委ねた。また6月になると、付属する写真集の撮影のため一路トルコへ。イスタンブールの繁華街や塩湖などで撮影は行なわれた。

トルコから戻ってきたメンバーは、夏のライヴへの準備を始めた。7月31日と8月7日は、富士急ハイランド コニファーフォレストにて“SHAPELESS”と題し、1990年の西武球場公演以来5年ぶりの野外コンサートを2日間開催。7月31日はBUCK-TICK単独公演で、ライヴの途中ステージの上空に稲光が走るという自然の演出も味方につけた。8月7日はSOFT BALLETとTHE MAD CAPSULE MARKETSとの3マン公演。『darker than darkness -style 93-』の楽曲を中心にしたセットリストで熱いパフォーマンスを観せた。

その2日後から、LUNA SEA、SOFT BALLETと共に、全5カ所5公演の“LSB”ツアーをスタートさせる。THE YELLOW MONKEY、L’Arc-en-Ciel、THE MAD CAPSULE MARKET’S、DIE IN CRIESがゲストアクトとして参加した。それまであまり他のバンドとの交流をもたず、孤高の存在であったBUCK-TICKと、巷のヴィジュアル系シーンとは一線を画すバンドとの共演は話題を呼び、伝説のイベントツアーと評された。

1994年12月、それまでロングだった髪をばっさりと切り落とした櫻井表紙の音楽誌がファンの間で話題騒然となっている頃、飽きるほどのんびりしたというオフ期間を経て、ニューアルバム『Six/Nine』のレコーディングに入った。オリジナル・アルバムとしては約2年ぶりである。この時点で今井の頭の中には、既に7曲出来上がっていると豪語していたが、そのアイデアをデモテープに落とし込む段階で手間取ってしまい、その結果レコーディングがいつものごとく……と言いたいところだが、今回ばかりは他のメンバーからの苦言や、本人による反省の言葉が散見されるほど、危機的な状況にあった。本来は作曲者が各パートのレコーディングを見届けるが、今井が作曲やアレンジに追われているため、個人作業で進められた。ボーカル録り、リズム録り、トラックダウンと、3つ押さえていたスタジオが同時進行することもあった。今作の星野楽曲で今井がギターを弾くことはなかった。

06

そんな中、1995年3月24日にリリースした先行シングル「唄」は、イントロからディストーション・サウンドを押し出したヘヴィーなロックチューンで、メンバーが有名ミュージシャンのコスプレをして登場するMVも含め、これまでのBUCK-TICKのイメージを塗り替えるような勢いがあった。『Six/Nine』の制作にあたり、今井にも櫻井にも“BUCK-TICKを変えたい”という共通の思いがあった。「唄」には2人の“変えたい”思いが顕著に表れていたゆえ、その反響は良くも悪くも大きかった。今作の櫻井の歌詞は、無駄なものを削ぎ落とすことでより研ぎ澄まされ、枠組みを超えて溢れ出るものをそのまま素直に言葉にしたようなところがある。4月21日にリリースしたシングル「鼓動」は、その結晶のような作品だ。

リリース前から賛否両論が飛び交った『Six/Nine』は、全16曲70分を超える大作となった。この実験的な意欲作をギリギリで完成させたメンバーは、その世界観を押し広げるべく『惡の華』以来の全曲ビデオクリップを撮影。4月のフィルム・ギグツアー「新作完全再生劇場版」(全7本)で公開した。そしてアルバムリリースの前日、5月14日に初の新宿リキッドルームでツアーの前哨戦となる“Six/Nine ’95.5.14”を開催し、満を辞してアルバム『Six/Nine』の発売を迎えた。オープニングを飾る「Loop」のポエトリーリーディングや、Der ZibetのISSAYとのツインボーカルによる「愛しのロック・スター」なども含め、新しいBUCK-TICKサウンドを提示した転換点となる作品になった。しかし、収録していた「楽園(祈り 希い)」においてアレンジに問題があり、この後すぐに先行リリースしていた「鼓動」共々、一旦回収されることになる。その後、アルバムバージョンから歌詞を書き直したリカットシングル「見えない物を見ようとする誤解 全て誤解だ」の発売と同じ9月21日に、修正を施したバージョンで再リリースされた。そんなトラブルもありながら、アルバム発売日からスタートした全国ツアー“Somewhere Nowhere 1995 TOUR”は大盛況。途中で既存曲も交えた公演もいくつかあったが、基本的には本編で同じ曲順のままアルバムを再現してみせた。

これまで『狂った太陽』、『Six/Nine』とサウンド面や意識的なところでの転換期を経験してきたBUCK-TICKだったが、デビュー10年目を目前にした1996年は彼らの環境が大きく変化する年であった。

07

1995年9月に“Somewhere Nowhere 1995 TOUR”を終えた後、12月1日にメジャーデビューから最新までのシングルA面曲を順番に並べたベストアルバム『CATALOGUE 1987-1995』をリリースしたものの、1996年5月22日のシングル「キャンディ」のリリースまで、実質表舞台から姿を消した状態にあったBUCK-TICK。その間に彼らは、所属していた事務所から独立し、1月31日付けで個人事務所である有限会社バンカーを設立した。この決断について、初代代表取締役社長に就任したヤガミは、「長く続けていく覚悟を決めた時期でもあった」と振り返る。ファンクラブは「BUCK-TICK CLUB」から、今の「FISH TANK」に変更した。

大きな環境の変化に四苦八苦しながら、新しいアルバムを作りたいという思いを募らせていた。『darker than darkness -style 93-』『Six/Nine』と、一度聴いただけではわかりづらいような難解な作品が2作続いた反動からか、今井の中の作曲に向かう姿勢は“シンプルでわかりやすいもの”へと変化していた。3月からスタートしたニューアルバム『COSMOS』のレコーディングは、コンセプトがはっきりしていたせいか、近年では珍しくスムーズに進んだ。5月22日にリリースした先行シングル「キャンディ」は、全体を包むサウンドはノイジーなものでありながら、リズムもメロディもポップで明快。歌詞も努めて明るく、ちょっとイカれてる。これまでとのギャップに驚かされた者も多かっただろう。ヤガミと樋口の兄弟がシルクハットに黒いスーツという揃いの衣装で登場するMVは、GUNIW TOOLSの古川ともが監督を務めた。

08

こうして完成したアルバム『COSMOS』は、サウンドがよりシンプルでソリッドになった結果、メロディや楽曲自体のクオリティの高さが際立つ作品となった。7月からスタートしたライヴツアー“TOUR 1996 CHAOS”では、今井のスタビライザーや一角獣のヘッドギアが登場。櫻井のMCも言葉数が増え、どこか肩の力が抜けたような軽やかさでステージを楽しむ様子が見てとれた。バンドはこの勢いのまま、12月からコンサートツアー“CHAOS After dark TOUR”へと進むはずだったのだが、その前に写真集の撮影のためにネパールを訪れていた櫻井が急性腹膜炎を発症。命の危険を伴うほどの重症で、緊急帰国。一カ月ほど入院することになり、ツアーは翌年の3月に延期された。新たなスタートを切った年に試練は訪れた。

Text:大窪由香

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